も、私の場合は瞑想《めいそう》に耽《ふけ》り続けているのであるから、かりに言葉があったら「瞑歩」という字を使いたいと思うのである。
 私はどんな所でも歩き廻る。だがたいていの場合は、市中の賑《にぎ》やかな雑沓《ざっとう》の中を歩いている。少し歩き疲れた時は、どこでもベンチを探して腰をかける。この目的には、公園と停車場とがいちばん好い。特に停車場の待合室は好い。単に休息するばかりでなく、そこに旅客や群集を見ていることが楽しみなのだ。時として私は、単にその楽しみだけで停車場へ行き、三時間もぼんやり坐っていることがある。それが自分の家では、一時間も退屈でいることが出来ないのだ。ポオの或る小説の中に、終日群集の中を歩き廻ることのほか、心の落着きを得られない不幸な男の話が出ているが、私にはその心理がよく解るように思われる。私の故郷の町にいた竹という乞食《こじき》は、実家が相当な暮しをしている農家の一人息子《ひとりむすこ》でありながら、家を飛び出して乞食をしている。巡査が捕えて田舎《いなか》の家に送り帰すと、すぐまた逃げて町へ帰り、終日賑やかな往来を歩いているのである。
 秋の日の晴れ渡った空を見
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