その自己流の道楽芸が専門の庭園師を嘆息させるほど、真にユニイクな芸術創作となるのである。
そこで彼の俳句を見よう。
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凧のかげ夕方かけて読書かな
夕立やかみなり走る隣ぐに
沓かけや秋日にのびる馬の顔
鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな
秋ふかき時計きざめり草の庵
石垣に冬すみれ匂ひ別れけり
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彼の俳句の風貌は、彼の人物と同じく粗剛で、田舎の手織木綿のやうに、極めて手触りがあらくゴツゴツしてゐる。彼の句には、芭蕉のやうな幽玄な哲学や寂しをりもなく、蕪村のやうな絵画的印象のリリシズムもなく、勿論また其角、嵐雪のやうな伊達や洒落ツ気もない。しかしそれでゐて何か或る頑丈な逞しい姿勢の影に、微かな虫声に似た優しいセンチメントを感じさせる。そして「粗野で逞しいポーズ」と、そのポーズの背後に潜んでゐる「優しくいぢらしいセンチメント」とは、彼のあらゆる小説と詩文学とに本質してゐるものなのである。
俳人としての室生犀星は、要するに素人庭園師としての室生犀星に外ならない。そしてこのアマチユアの道楽芸が、それ自らまた彼の人物的風貌の表象であり、併せて文学的エ
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