一杯の紅茶をすすり、労作の後に机を浄めて、心の余裕を楽しむ閑文学の風雅にすぎない。そしてこの詩作の態度は、彼の他の詩文学であるところの、俳句の場合に於ても同様である。即ち他の多くの小説家の例にひとしく、彼の俳句もまた「文人の余技」である。
しかしながら彼の場合は、芥川氏等の場合とちがつて、余技が単なる余技に止まらず、余技そのものの中に往々彼の作物を躍如とさせ、生きた詩人の肉体を感じさせるものがある。すべて人はその第一義的な仕事に於て、思想と情熱の全意力を傾注し、第二義的な仕事即ち余技に於ては、単に趣味性のみを抽象的に遊離して享楽する。室生氏の場合も亦これと同じく、彼の句作の態度には、趣味性の遊離した享楽(ヂレツタンチズム)が多分にある。だがそれにも拘らず、彼はその趣味性の享楽を生活化し、ヂレツタンチズムを肉体化することによつて、不思議な個性的芸術を創造するところの、日本茶道精神の奥義を知つてる。例へば彼が陶器骨董を愛玩する時、その趣味性の道楽が直ちに彼の文学となり、陶器骨董の触覚や嗅覚がそれ自ら彼の生きた肉体感覚となるのである。そして彼が石を集め、苔を植ゑて庭を造り楽しむ時、しばしば
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング