小説家の俳句
俳人としての芥川龍之介と室生犀星
萩原朔太郎

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 芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。それに氏には「余が俳句観」と題するエツセイもある程なので、さだめし作品が多量にあることだと思ひ、いつかまとめて読んだ上、俳人芥川龍之介論を書かうと楽しみにしてゐた。然るに今度全集をよみ、意外にその寡作なのに驚いた。全集に網羅されてる俳句は、日記旅行記等に挿入されているものを合計して、僅かにやつと八十句位しかない。これではどうにも評論の仕方がない。しかしこの少数の作品を通じて、大体の趣味、傾向、句風等、及び俳句に対する氏の主観態度が、朧げながらも解らないことはない。
 前にも他の小説家の俳句を評する時に言つた事だが、一体に小説家の詩や俳句には、アマチユアとしてのヂレツタンチズムが濃厚である。彼等は皆、その中では真剣になつて人生と取組み合ひ全力を出しきつて文学と四つ角力をとつてるのに、詩や俳句を作る時は、乙に気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として、綺麗事に戯むれてゐるといふ感じがする。室生犀星氏がいつか或る随筆で書いてゐたが、仕事の終つた後で、きれいに机を片づけ、硯に墨をすりながら静かに句想を練る気持は、何とも言へない楽しみだと。つまりかうした作家たちが、詩や俳句を作るのは、飽食の後で一杯の紅茶をのんだり、或は労作の汗を流し、一日の仕事を終つた後で、浴衣がけに着換へて麻雀でもする気持なのだ。したがつて彼等の俳句には、芭蕉や蕪村の専門俳人に見る如き、真の打ち込んだ文学的格闘がなく、作品の根柢に於けるヒユーマニズムの詩精神が殆んどない。言はばこれ等の人々の俳句は、多く皆「文人の余技」と言ふだけの価値に過ぎず、単に趣味性の好事としか見られないのである。
 芥川龍之介は一代の才人であり、琴棋書画のあらゆる文人芸に達した能士であつたが、その俳句は、やはり多分にもれず文人芸の上乗のものにしか過ぎなかつた。僕は氏の晩年の小説(歯車、西方の人、河童等)を日本文学中で第一位の高級作品と認めてゐるが、その俳句に至つては、彼の他の文学であるアフオリズム(侏儒の言葉)と共に、友情の割引を以てして
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