も讃辞できない。むしろこの二つの文学は、彼のあらゆる作品的欠点を無恥に曝露したものだと思ふ。即ち「侏儒の言葉」は、江戸ツ子的浮薄な皮肉とイロニイとで、人生を単に機智的に揶揄したもので、パスカルやニイチエのアフオリズムに見る如き、真の打ち込んだ人生熱情や生活体感が何処にもない。「侏儒の言葉」は、言はば頭脳の機智だけで――しかも機智を誇るために――書いた文学で才人としての彼の病所と欠点とを、露骨に出したやうな文学であつたが、同じやうにまた彼の俳句も、その末梢神経的の凝り性と趣味性とを、文学的ヂレツタンチズムの衒気で露出したやうなものであつた。その代表的な例として二三の作品をあげてみよう。
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蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな
暖かや蕊に臘ぬる造り花
臘梅や雪うち透かす枝のたけ
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「蝶の舌」の句は、ゼンマイに似ているといふ目付け所が山であり、比喩の奇警にして観察の細かいところに作者の味噌があるのだらうが、結果はそれだけの機智であつて、本質的に何の俳味も詩情もない、単なる才気だけの作品である。次の二つの句もやはり同じやうに観察の細かさと技巧の凝り性を衒つた句で、末梢神経的な先鋭さはあるとしても、ポエヂイとしての真実な本質性がなく、やはり頭脳と才気と工夫だけで造花的に作つた句である。彼は芭蕉の俳句中で
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ひらひらと上る扇や雲の峯
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を第一等の名作として推賞してゐたが、上例の如き自作の句を観照すると、芥川氏の芭蕉観がどのやうなものであつたかが、およそ想像がつくであらう。つまり彼は、芭蕉をその末梢的技巧方面に於て、本質のポエヂイ以上に買つてゐたのである。
いつか前に他の論文で書いたことだが、芥川龍之介の悲劇は、彼が自ら「詩人」たることをイデーしながら、結局気質的に詩人たり得なかつたことの宿命にあつた。彼は俳句の外に、いくつかの抒情詩と数十首の短歌をも作つてゐるが、それらの詩文学の殆んど全部が、上例の俳句と同じく、造花的の美術品で、真の詩がエスプリすべき生活的情感の生々しい熱意を欠いてる。つまり言へば彼の詩文学は、生活がなくて趣味だけがあり、感情がなくて才気だけがあり、ポエヂイがなくて知性だけがあるやうな文学なのだ。そしてかかる文学的性格者は、本質的に詩人たることが不可能である。詩人的
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