を通して、侘しく床の上に流れて居ます。
そして力のない冬の蠅は、ぶむぶむといふ羽音をたてて室内を飛び※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて居ます。
いま白い寢臺の上に、悲しい「死」が横はつて居る。
ここに人間の安息日があります。
その人の心臟は腐れ、その人の魂はすやすやと眠つて居ます。
げに私はふらんねるをきて眠つてゐる疲れた心臟の所有者です。いぢらしくも頽廢した人間の死骸です。
この白い寢臺の枕もとに寄りそつて、一人の物思はしげな少女が立つてゐる。この少女こそ、私の氣高き心の戀びとです。
「戀びとよ」私の眠れる心臟は、彼女に向つてかう呼びかけます。もちろん、それは現實の戀びとではありません。それは私の心にいつも悲しく描いてゐる夢想の愛人の姿です。
彼女は私の枕もとに坐つて、深くなにものかを凝視して居ります。恐らくそこには凍りついたひとつの心臟と、青ざめた病氣の神經との陰影を視るのでせう。
しだいに彼女の心は、深い憂愁のためいきから、不思議な明るい幻想の悦びに變つてきました。
いつしか彼女の美しい瞳には、涙がいつぱいになつて頬の上をながれてきました。
ほんとに彼女は、私の幸福のために泣いてくれたのです。悲しみのためではなくして、あの珍らしい「幸福」のために泣いたのです。すべての人類の中で、ただ愚かな私にのみ許された「幸福」のために。
言ふ迄もなく、彼女の病熱的なキリスト教の信仰と、彼女の感傷[#「感傷」に傍点](それは人間の最も神聖な道徳的感情です)とが、不幸な私を救つて神の前に導いたのです。「愛」それこそ私共の求める「救ひ」の凡てです。それこそ私のやうな虚無思想家が信ずる所の、ただ一つの眞實、ただ一つの神祕です。
「戀びとよ」
と、私の疲れた心臟が白い寢臺の上で叫びました。
そしていま、彼女の唄ふしづかな、しづかな子守歌をききながら、私の心は幸福にも「遠い墓場の草かげにまで」すやすやと眠りついて行くのです。
ぶむぶむといふ蠅の羽音を夢の中に、物侘しい日暮れの室内の寢臺の上で。

ああ、かくばかり私は「愛」と「信仰」とに求めあくがるる魂のをさな兒です。
私は疲れて頽廢して居ます。私の心は絶望的な悲しみに充ちて暗く閉ぢられて居ます。
いま私の求めて居るものは、立派な論理の上に建つた哲學や概念や主張の上で宣導される愛の宗教ではありません。
私はただ生きた人間の生きた愛と、その神祕から生れる奇蹟を求めて居るのです。私の凍つた心臟の上にやさしくあたたかく置かれる所の美しい、そして限りなく氣高い處女まりやのおん手を求めて止まないのです。
かうした私の子供じみたせんちめんたりずむ[#「せんちめんたりずむ」に傍点]をお笑ひ下さるな。
愚かにも私は、長い長い三十餘年の月日を、詩人めいた「幸福の冥想」と「生の意義」との焦心に浪費してしまつたのです。
併し今はその愚かさと空虚に疲れました。
今はただ白い寢臺の上で、靜かな生のためいきに耳を傾けながら、「美しい竝木ある墓地」の夢を樂しむばかりです。
「それがお前の幸福のすべてだ」あの不吉な鴉が私に語つた言葉はこれです。
とはいへ、今日の靜かな雨の日の窓で、かうした手紙をあなたに書くことを悦びます。
思ふにあの美しい「敍情詩人」といふ名稱は私の墓石の銘を飾るためには最も適はしい文字でせう。藝術の權威を信じない私にとつて、詩を魂の慰安として無意義に人生を空費した私にとつて、その墓銘こそ悲しい運命の微笑を語るものです。
では、愉快に希望を以てお別れしませう。


 坂

 坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]の感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向うに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。
 坂が――風景としての坂が――何故にさうした特殊な情趣をもつのだらうか。理由《わけ》は何でもない。それが風景における地平線を、二段に別別に切つてるからだ。坂は、坂の上における別の世界を、それの下における世界から、二つの別な地平線で仕切つてゐる。だから我我は、坂を登ることによつて、それの眼界にひらけるであらう所の、別の地平線に屬する世界を想像し、未知のものへの浪漫的なあこがれ[#「あこがれ」に傍点]を呼び起す。
 或る晩秋のしづかな日に、私は長い坂を登つて行つた。ずつと前から、私はその坂をよく知つてゐた。それは或る新開地の郊外で、いちめんに廣茫とした眺めの向うを、遠く夢のやうに這つてゐた。いつか一度、私はその夢のやうな坂を登り、切岸《きりぎし》の上にひらけてゐる、未知の自然や風物を見ようとする、詩的な Adventure に驅られてゐた。
 何が坂の向うにあるのだらう? 遂にやみがたい誘惑が、或る日私をその坂道に
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