その言葉の終らない中に、人人は不意に足の裏から、大きな棒で突きあげられるやうな氣持がした。
 ちよつとの間、どこかで烈しく布を引きさくやうな音が聞えた。
 そして、一人殘らず、まつくらな海の底へたたき込まれた。

 かうして、不幸な騎士たちの計畫は、見事に破壞されてしまつた。彼等の美しいロマンチツクの船と一所に。とこしなへに歸らぬ海の底に。
 ほんとに彼等は氣の毒な人たちであつた。
 何故かといふに、彼等が今少しの間この恐ろしい事實、即ち彼等の船が「うづまき」の中に卷き込まれて居たことに氣が付かずに居たならば、彼等はその幸福を夢みて居る状態に於て、やすらかに眠ることができたかも知れなかつたのである。
 私が音樂を聽くとき、わけてもその高潮に達した一刹那の悦びを味ふとき、いつも思ひ出すのはこのあはれに悲しげな昔の騎士の夢物語である。
 手にとられぬ「神祕の島へ」の、悲しくやるせない冒險の夢物語である。


 二つの手紙

ある男の友に。
近來、著るしく廢頽的傾向を帶びてきた私の思想に就いて、君が賢こい注意と叱責とを與へられたことを感謝する。
これは全く惡いことだ。惡いことと言ふよりは寧ろ悲しむべきことだ。
私は恐れてゐる。私もまた世の多くの虚無思想家が墮ち入るべき、あの恐ろしい風穴の前に導かれて來たのではないかと。(神を信じない人間の運命は皆これだ。)
想へば、長い長い年月の間、私は愚劣な妄想によつて牽きずられて居た。
私の過去の淺ましい求道生活をば、私は何に譬へよう。
それは丁度、意地のきたない、駄馬の道行であつた。この悲しい一疋の馬は、あてもない晩餐の幸福と、夢想の救命とを心に描きながら、性急な主人の鞭の下にうごめいて居た。
しかし意地のきたない動物の本能として、絶えず路傍の青草を食ひ散らしながら。
天氣はいつも陰鬱で、空はいつも灰色に曇つて居た。遂にこの悲しむべき旅行の薄暮がきた。
今こそ私はすべてを知つた。すべての生物の上に光るところの恐ろしい運命の瞳をみた。孤獨の道は遠く、人生の墓場は遂に幻影の既死に終るべきことを知つた。
いま私は瞳をとぢて、靜かな、靜かな、人間の葬列を想ふ。
その葬列の流れゆく行方を想ふ。
所詮は疲れた駄馬の幸福である。
馬よ、愚かな反抗とその焦心を捨てよ、その時お前はどんなに幸福であるか。
「生を樂しめ、理窟なしに。しからずんば、死を樂しめ、理窟なしに。」
私はかう唄つた。
いま私は求める、生き甲斐もない我が身をして、新らしい土地にかへす所の墓場を。
私は愛する、しめやかな鎭魂樂の響と、冬の日の窓にすがりつく力のない蠅の羽音を。
私は眠る、私は疲れた。
そこには、あまりに空虚な幻象の哲學と、あまりに神經質なる焦心の休息がある。
とりわけ私は退屈した。ああ「退屈」なんといふ恐ろしい言葉だ。君はこの言葉のもつ底氣味の惡い微笑を知るか。あのニイチエを憑き殺した此の幽靈の青ざめた姿を見るか。
「愛」それは今の私に殘された、ただ一つの祈祷である。私の信ずるただ一つのキリスト、ただ一つの神祕である。(「愛」の奇蹟を私に教へた者はドストイエフスキイであつた。若し私があの驚くべき神祕に充ちた書物「カラマゾフの兄弟」を讀まなかつたならば、私は今日救ふべからざるデカダンとなつて居たにちがひない。)
とはいへ、私の求愛の道はあまりに遠く、あまりに陰鬱でしめりがちである。
私の魂は疲れがちで、ともすれば平易な墓場の夢を追ふに慣れ易い。
私に就いて、君が私の思想の頽廢を責めたのはよい。
私もまた、私自身のさうした惡傾向にはたまらない不快を抱いて居るのである。(君も知つて居る通り、私の求めてゐる哲學は、人間としての最も健全なる、最も明るい靈肉合致の宗教である。)
併しながら、若し君が私に就いてその感情生活の僞りなき記録である私の敍情詩を責めるならば、私は私の懺悔を君にかくれてするばかりである。何故ならば、敍情詩は私のためには「感情の告白」であつて「思想の宣傳」ではない。私の祈祷と私の懺悔とはいつも正反對である。(それは私にとつては悲しむべくまた恥づべきことだが。)
いま私の心は光に憧れる、しかも私の感情は闇の中にうごめいて居る。
君よ。私の悲しむべき矛盾を笑つてくれるな。すべてに於て、君は私をよく理解してくれるであらう。


ある女の友に。
私は今の生活に就いては、どういふ言葉で、どうお話したらよいでせう。
あなたは私の詩「夕暮室内にありて靜かにうたへる歌」をご覽でしたか。
ああした詩の表現する心もちこそ、近頃の私の祈祷的な内面生活を語るものです。
一人、薄暮の室内に坐つて冥想に沈む私の心は、あの白い寢臺の上に長く眠つてゐる悲しい人間の姿です。
私の心臟は疲れて、私の胴體は寢臺の上に横はつて居ます。
日暮の光線は硝子窓
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