むず痒いやうな感覺。何ともいへない樂しい世界へ、今少しのことで手が屆きさうに思はれるときの快よい焦燥と、そのぞくぞくするやうな心臟のよろこび、そのほつとする心もち、甘つたるい悲しさ、しぜんと涙ぐむやうになる情緒の昂進。
 凡そ音樂の見せてくれる世界ほど、不可思議な誘惑と魅力に富んだものはない。かうした世界のよろこびを傳へるためには「掻きむしられる樂しさ」といふ言葉より外の言葉はないのである。何となれば、それは人間の常住する世界ではない。そこには何かしら、人間以外のある限りなく美しい者が住んでゐる祕密の世界である。この世界の實景實情を語るためには、人間の言葉はあまりに粗野であまりに感情に缺けすぎてゐる。
 音樂をきくとき、私は時時考へる。
 一體そこには何物が居るのか。何物がどんな魔術を使つて、かうまでに私共の心を誘惑するのか。
 實際それは恐ろしい誘惑である。
 昔は多くの夢みる詩人が居た。
 ある時、彼等の中でも最も勇敢な騎士たちが、この祕密の世界へ向つて探險旅行を試みた。
 彼等は美しい月夜に船の帆を張りあげて進んだ。この不可思議な「見えない島」と「見えない魔術師」の正體を發見するために。彼等の船は長いあひだ月光の下をただよつた。そしてしまひにたうとうあるひとつの怪しげな島を發見した。その島の上には、一人の言ひやうもない美しい魔女が立つてゐるやうに思はれた。しかも花のやうな裸體のままで、琴を手にかかへて。
 夢みる勇敢な騎士たちが、よろこび叫んで突進した。彼等は皆若くそして健康で美しかつた。彼等の生活は酒と戀と音樂であつた。就中その切に求めて居るものは戀と冒險であつた。
 まもなく、島が彼等のすぐ眼の前に現はれた。そして不思議な音樂のメロヂイが、手にとるやうにはつきりと聞えはじめた。
 騎士たちの心は希望と幸福に充ちあふれた。長い長い年月のあひだ、彼等の求めてゐたその夢の中の不思議な世界、その空想で描いた妖魔の女性。かつてそれらのものは、手にも取られぬ幻影の幸福であつた。
 然るに今は、夢でもなく空想でもない。事實は彼等のすぐ眼の前に裸體で突つ立つて居る。しかもいま一分間の後には、凡てそれらの謎の祕密と幸福の實體とは、疑ひもなく彼等自身の手の中に握ることができるのである。永久に、しかも確實な事實として。僅か一分間の後に。
「ああ、何といふ仕合せのよいことだ。」

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