を得ず「現実」や「自然」などといふ訳語を、無理にこじつけて適当させた。そして結局、レアリズムもナチュラリズムも、その他の如何なる西洋文学も、正当に翻訳し得ないで終つてしまつたのである。
外国文化の輸入に於て、翻訳が絶対に不可能のこと、実には「翻案」しか有り得ないこと、そして結局、すべての外国文化の輸入は、国民自身の主観的な「創作」に過ぎないことは、以上の一例によつても解るのである。支那文化を同化した日本人の過去の歴史は、特によくこの事実を実証してゐる。
日本の陸軍では、すべての外国語を、故意にむづかしい日本語(実は漢語)に訳してしまふ。例へばタンクを、軍用自働車と言つたり、装甲自働車と訳したりする。或る教官が新兵に教へて、「日本の陸軍は本質的に外国の軍隊とちがふのである」と言つた後で、無邪気な新兵が質問した。「教官殿。サーベルは西洋の刀でありませんか。」教官「サーベルではない。日本の軍隊では指揮刀と言ふのだ。解つたかツ。」新兵「ラツパは何でありますか。」教官「馬鹿ツ! ラツパは日本語だ。」
これは国枠主義のカリカチュールである。国枠主義者の観念は、すべての輸入した外国文化を、
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