識のものであつた。小宮氏の所説は、俳句の翻訳不可能を言ふために、宮森氏の訳を引例しただけであつて、別に宮森氏の訳を悪評したわけではなかつた。然るに宮森氏は、外国人の賞讃した批評を自慢らしく列記した後で、この通り外国で好評を博して居り、外国人でさへ賞めてゐるのに、日本人たる小宮氏輩が非難するとは以ての外で、同胞らしくもなく怪しからんことだと言つて怒つてゐる。そのくせ肝腎の問題たる翻訳の可能性に就いては、少しも良心のある弁証をしないで、単に子供らしく単純に可能だと言ひ張るばかりで、議論外の題目たる小宮氏の語学力などを、ひどく悪辣な調子で罵つてゐる。
 宮森といふ人は、語学者として名声の高い人であるが、読売新聞の一文を読んで、いささか人格的に軽侮を感じた。言ふ事がまるで非常識で、中学生の頭脳にもなつてゐない。外国人が賞讚するほどの訳を、日本人の分際で非難するのは怪しからんといふのは、語学としての出来の批判を言つてるのだらうが、小宮氏の所論では、語学としての問題ではなく、詩の翻訳の可能についての議論なのである。宮森氏の頭脳では、詩の翻訳が語学の智識で一切尽せるやうに思つてゐるのだ。語学者なんていふ人間は、実に頭脳の悪いものだとつくづく思つた。本来言へば、すべての良心のある翻訳者は、小宮氏が言つた位のことは自分で訳本の序に書いている筈である、堀口大学君の如きも、その訳詩集に「失はれたる宝石」といふ題をつけてゐるし、故上田敏博士も、訳詩集を出す毎に翻訳の不可能に属することを、自ら告白して謝罪されてゐた。詩といふ文学は、その深い味を知れば知るほど、いよいよ他国語に翻訳できないことが解つて来るからである。宮森氏にして、若し真に俳句を理解してゐるとすれば、外国人の好評に対して、却つて自ら羞爾たるものを感じなければならない筈である。なぜなら如何なる語学の才能を以てしても、詩(特に俳句)の満足する翻訳が出来ないことは、自分で解つてゐる筈であるから。

 ポオの無韻詩「大鴉」の表現効果は、あのねえばあ[#「あのねえばあ」に傍点]・もうあ[#「もうあ」に傍点]とか、れのああ[#「れのああ」に傍点]とかいふ言葉の、寂しく遠い、墓場の中から吹いて来る風のやうな、うら悲しくも気味の悪い音韻の繰返す反響にある。ポオはそれを意識的に反復させて、詩の全体のモチーフを、その語の表象する気分の週期的反響によ
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