訳さうと思ふならば、「花」は英語の flowers でなくして、日本語「花」といふ語をそのまま原語で用ゐる必要がある。また「鐘」は chimes や bells でなく、日本語の「鐘」でなければいけない。即ち要するに、原詩を原語で示す以外に、翻訳は絶対不可能だといふ結論になる。
翻訳の可能性がある俳句は、連想の内容が極めてすくなく、詩趣が稀薄である代りに、理智的の説明を内容に有する俳句だけである。例へば芭蕉の句で「物言へば脣寒し秋の風」蕪村の句で「負けまじき角力を寝物語かな」の類。特に就中、加賀千代女等によつて代表される人情的月並俳句である。千代女の「蜻蛉つり今日は何所まで行つたやら」「身に沁みる風や障子に指の跡」「朝顔につるべ取られて貰ひ水」等の句は、言葉のイメーヂやヴィジョンから来る詩趣でなくして、人情的な内容からくる興味を主としたものであるから、この種の句ならば、翻訳を通じて外人に理解させることが出来るのである。故小泉八雲のラフカヂオ・ハーン氏は、日本人と日本の文化に対する唯一の最上の理解者であつたけれども、氏の鑑賞を以てしても、その愛読された俳句の程度は、上掲した加賀千代の人情的月並俳句に止まつてゐた。況んや日本に居住することなく、日本の文学を全く読まず、日本に就いて知る所の殆んどない一般の欧米人が、宮森氏の訳を通じて、芭蕉等の俳句が解り得る道理はない。おそらく彼等が、翻訳を通じて「古池や」等の俳句から感ずるものは、「花の雲」の句を葬式の詩として感心した外国人と同じく、原句の詩趣とは全くちがつた別のヴィジョンに、彼等自身の主観した東洋的エキゾチシズムの幻像を画いたものであるだらう。
もつとも詩の特質は、各※[#二の字点、1−2−22]の読者に各※[#二の字点、1−2−22]の主観的幻想をあたへることに存するのだから、訳詩を通じて、外国人が外国流に勝手なヴィジョンを構成し、勝手な主観的解釈をしたところで、一向に何の差支へもないわけであり、むしろ訳詩の本来の目的がそこに有るとも言へるのである。それ故に本来言へば、詩の翻訳に語学上の詮議は無用で、むしろ訳者自身の個人的主観によつて、自由に勝手に翻案化してしまふ方が好いのである。逆説的に言へば、すべての訳詩は誤訳であるほど好いといふ結論になる。
小宮氏の所論に対して、宮森氏の読売新聞に書いた抗議文は甚だ非常
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