詩の翻訳について
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)庵《いほり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
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 宮森麻太郎氏の英訳した俳句は、外国で非常に好評ださうであるが、その訳詩を通じて、外国人が果して何を感銘したものか疑問である。おそらくは歌劇ミカドを見物して、日本人を理解したといふ程度であり、俳句を HAIKAI として解釈した程度であらう。多くの場合に、外国人に好評される日本の者は、真の純粋の日本ではなく、彼等のフジヤマやゲイシヤガールの概念性に、矛盾なく調和して入り得る程度の、テンプラフライ式の似而非日本である。真の本当の日本のものは、彼等に理解されないことから、却つて退屈されるばかりである。宮森氏の翻訳が西洋で受けてる理由も、おそらくそれがハイカイ的俳句である為かも知れないのである。
 小宮豊隆氏は、翻訳の不可能を例証する為、次の宮森氏の訳句を引例してゐる。

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The ancient pond!
A frog plunged splash!
(古池や蛙とび込む水の音)
[#ここで字下げ終わり]

 小宮氏は言ふ。俳句の修辞的重心となつてるものは、「古池や」の「や」といふ如き切字である。この場合での「や」は、対象としての古池が、ずつと以前からそこに有つたといふ時間的経過と、実在的な恒久観念と、併せてそれに対する作者の主観的感慨とを表示してゐる。句はその切字で分離されて居り、以下の「蛙飛び込む」は、目前の現実的印象を表現してゐる。そしてこの現実的印象としての瞬間が、恒久的実在の「古池」の中に消減することによつて、芭蕉の観念する「無」の静寂観が表現されるのである。然るに宮森氏の訳では、この「や」が!の符号によつて書かれてる。外国語の!は、単なる感歎詞の符号であるから、それによつて原詩の時間的観念や実在的観念を表示することは出来ない。俳句に於ける切字の「や」は、非常に豊富な内容をもつ複雑な言語であつて、外国語に於ける!の如き、単なる感歎詞の符号ではないのであるから、この点の訳が第一に不完全だと言ふのである。
 次に尚ほ小宮氏は、言語の連想性に就いて述べてゐる。即ち例へば「古池」といふ言葉は、日本人の連想からは直ちに古い寺院の池や、庭園などにある閑
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