の縮図を見せることから、主観に於ける作家の意味を、読者に暗示するのである。即ち前者の行き方は音楽であり、後者の行き方は絵画である。
かく考えれば、所謂《いわゆる》客観主義の文学も、所詮《しょせん》は「主観のための観照」であり、他の者と選ぶところが無くなってくる。どっちにしても、結局の目的は主観であって、それを描き出すのが主だとすれば、間接のまだるっこい画など描かずに、直接の主観をじかに出して、露骨に訴えたり、叫んだり、主張したりする方が好いじゃないか、と多くの主観主義者は考えるのである。これによって彼等は、直ちに主義をひっさげて演説したり、人生観を評論したり、或《あるい》は尚《なお》一層主観的な詩人のように、まっすぐに直情そのものを露出して絶叫する。実に彼等は、気の短かい性急の人たちである。だがしかし一方では、こうした性急の詩人たちが、客観主義者によって憫笑《びんしょう》されてる。なぜならば客観主義者は、人生の真相を描くということ、そのこと自身に芸術的な別の興味を持ってるからだ。丁度すべての科学者が、真理の探求をイデヤしているにかかわらず、尚かつ実際には、科学すること自身、実験すること自身に於て、学者的な興味をもってるのと同じである。この興味がなかったら、何人も科学者にはならないだろう。同様に芸術家等は、芸術すること自身、世相を観照すること自身に、彼の特別な興味を持つので、それが無かったら、始めから皆は主義者や思想家になってしまう。
此処《ここ》が実に、主観主義者と客観主義者の別れるところだ。前者にあっては、何よりも主観を露出し、「訴える」ということが大切なのに、後者はむしろ、それを同時に「描く」ということが眼目なのだ。したがって後者の良心は、客観の明徹を期し、真実《ツルース》を確実にすることに存するので、彼等が主観主義者の感情的態度を排するのは、この「真実」を重んずる認識的良心によるのである。反対に前者にあっては、真実よりもむしろ感情が先に立ち、主観への一直線の表現が要求される。
この両者の関係は、丁度二人の旅人にたとえられる。主観主義者にあっては、旅行は目的地に急ぐためであって、旅行するための旅行でない。彼等は慌《あわた》だしげに歩き、四囲の風景や人情などを、まるで観察しようと思っていない。反対に客観主義者は、旅行する事それ自身に、興味を持ってる旅行者である。もちろん彼等も、一定の目的地は持ってるだろう。だがそれに達すると達しないとは、主観に於てどうでも好いので、より当面の興味や仕事は、周囲の社会を観察し、人情を調べ、風俗を知り、世態を眺《なが》めることにかかっている。そして実に、旅行そのものの真意義が此処にあるのだ。故に後者は「旅行のための旅行」であり、真の意味の旅行家[#「旅行家」に丸傍点]と言うべきだろう。これに対して前者は、旅行それ自体に意義を認めない旅人であって、人生の慌だしき、性急なる飛脚である。
この典型に属するものは、多く宗教家、求道者、主義者、哲学者等に見るものであって、芸術家の中には稀れである。なぜならば芸術家とは、芸術すること自身――芸術のための芸術――に、直接の興味をもつ種族だから。実に小説家や戯曲家やは、その最も主観的な作家であってさえも、やはり人生を観察し、風俗を描写し、表現を表現すること自身に於て、当面の直接な興味をもってる。(でなければどんな小説や戯曲も有り得ない。)故に彼等の認識態度は、常に純粋に客観的で、主観の情意から独立している。真に主観的の態度によって、世界を感情の眼で見ているものは、あらゆる文学者の中で、ただ独《ひと》り詩人あるのみである。詩人だけが、言語の正しき意味に於て、純に主観主義者と云うべきである。
第八章 感情の意味と知性の意味
自然主義の写実論は、世界をその存在のままに於て、少しも主観に於ける選択をせず、物理的レンズの忠実さで書けと言った。勿論《もちろん》彼等の芸術論は、当時の浪漫派の文学――それは偏狭な道徳観と審美観とで、あまり多くの選択をしすぎた、――に対する反動として言われたもので、その限りに於ての啓蒙《けいもう》的意義を有する。しかしこうした写実論から、その啓蒙的意義を除いて考えたら、世にこれほどセンスの欠けた思想は無かろう。なぜなら主観に於ける選択なくして、いかなる認識も有り得ないから。畢竟《ひっきょう》、認識するということは、この混沌《こんとん》無秩序な宇宙について、主観の趣味や気質から選択しつつ、意味を創造するということに外ならない。
故《ゆえ》に人間によって見られた世界は、それ自ら「意味としての存在」である。そして「価値」とは、意味の普遍に於ける証価を言う。あらゆる人間文化の意義は、宇宙に於ける意味に於て、真善美の普遍価値を発見することに外ならない。されば道徳と言い、宗教と言い、学術と言い、芸術と言い、一切にわたる人間文化の本質は、結局して意味の最も深いものを、その普遍的証価に於て発見し、人生に一の創造をあたえることにかかっている。
では意味の最も深いものは何だろうか。主観的に考えれば、意味とは気分、情調である。人が酒に酔ってる時、世界は意味深く感じられる。恋をしている時、世界は色と影とに充ち、到るところに意味深く感じられる。そして道徳や正義感に燃え立ってる時、或《あるい》は宗教的な高い気分になってる時、すべて人生は意味深く、汲《く》めども尽きないものに感じられる。そこで主観に於けるこれ等の気分を、逆に呼び起してくるもの、即ち感情の高空線に音波を伝え、心の電気を誘導させてくれるものは、すべて、意味としての認識価値があるものである。然るにこれ等の気分感情は、すべて心を高翔《こうしょう》させ、浪《なみ》立たせ、何等か普遍に向ってのひろがり[#「ひろがり」に傍点]を感じさせるところのもの、即ち美学上の所謂《いわゆる》「美感」に属するもので、普通の私有財産的な無価値の感情、即ち美学上の所謂「実感」とちがうのである。実感には意味の感なく、私人的にしか価値がないのに、美感は普遍的のものであって、広く万人の胸に響をあたえ、かつ表現への強い衝動を感じさせる。一般に宗教感、倫理感、及び芸術的音楽感の本質が此処《ここ》に存することは言うまでもない。
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この「実感」という語は、今日の文壇で「体験」とか「生活感」とかいう意味に転用されている。だがこれを当初に使ったのは自然主義で、美学上の原意に用いられていた。即ち当時に言われた「実感で書け」の意味は、美的陶酔のない感情、プロゼックな現実感で書けの意味だった。
文壇に於ては、今日この言語が転化してしまったけれども、一般の社会に於て、尚《なお》しばしば原意のままで使用されてる。例えば裸体画問題等について、警察官が言う「実感を挑撥《ちょうはつ》する」等がそうである。
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かく一方から考えると、意味の深さは感情の深さに比例し、より情線に振動をあたえるものほど、より意味の深いものである。然るにまた一方から、客観の立場に於て考える時、意味の深さは認識の深さに比例する。より深く真実にふれ、事物や現象の背後に於て、普遍的に法則するもの(科学的真理)や、或はその科学的真理の上に於て、さらに法則を法則する一切の根本原理(哲学的真理)にふれた時、吾人《ごじん》はそれを意味深長と云う。この場合の「意味の感」は、言うまでもなく合理感で、理性の抽象する概念であるけれども、理性が理性自身として、直接に意味の感を伝えるものは、芸術上に於ける直感的理性(観照の智慧《ちえ》)であって、それの認識が深いものほど、直感的に意味深く感じられる。そしてこの直感的理性は、その概念性の有無を除いて、本質には科学や哲学の認識と同じことで、常に事物と現象の背後に於て、或る普遍的に実在するもの――即ち自然人生の本有相――を、観照の面に映し出そうと意図している。
かくの如く「意味の深さ」は、一方では感情によって測量され、一方では理性によって測量される。しかし理性が理性自身として、意味を測量することはできないだろう。意味は一つの「感じ」であって、広い意味の感情《フイリング》に属する故に、所詮《しょせん》言えば一切は、主観上での測量に帰してしまう。けれども「感情的な意味」と「知性的な意味」とは、たしかにその意味に於ける、感じの色合や気分がちがっている。例えば吾人が、音楽に酔って人生を意味深く感ずる時と、アインスタインの相対性原理を始めて学んで、世界の新しい意味を感じた時と、同じく「意味の感」ではあるが、その感の色に相違があり、どこかに特別のちがいがある。そしてこの「意味の感」に於ける解釈の相違から、実にプラトンとアリストテレスが別れたのだ。
プラトンとアリストテレス、哲学上に於ける浪漫主義者と現実主義者の差別については、既に他の章でも述べたけれども、此処でさらに根本の本質に触れねばならぬ。肝腎《かんじん》なことは、プラトンとアリストテレスが、本質に於て全く一致しているということである。彼等は共に形而上《けいじじょう》学者であって、現象の背後に実在する、一の本体的なるものを求めた。ただ異なるのは、前者の態度が瞑想《めいそう》的、哲学的であったに反し、後者の態度が経験的、科学的であったことだ。換言すれば、前者が時間の「観念界」に於て、直ちに瞑想から達しようとした実在を、後者は空間の現象界から、物質の実体を通じて見ようとした。しかも究極に於て、二人の見ようとしたものは一であり、ひとしく形而上の実在だった。にもかかわらず、何故にあの悲痛な師弟は、最後に喧嘩《けんか》をしてしまったのか。けだしこの悲劇は、弟子が師の「詩」を理解し得ず、師が弟子の「散文」を読まなかったという、気質の避けがたい運命にあったのだ。
プラトンについて思惟《しい》されるのは、何よりも彼が詩人であったということである。彼に於ては、冷たい、氷結した、純理的のものを考えることができなかった。彼のイデヤは詩的であり、情味の深い影を帯びた、神韻|縹渺《ひょうびょう》たる音楽である。これに反してアリストテレスは、気質的の学者であって、古代に於ける典型的の学究である。彼には詩的な情趣が全く無かった。故に彼の哲学した実在は、純然たる理智的の概念であり、冷たい、没情味の、純学術上の観念だった。即ち換言すれば、アリストテレスの観念は純理的の意味であって、プラトンのそれは宗教的の意味である。プラトンにあっては、イデヤが感情の中に融《と》かされ気分の情趣ある靄《もや》でかすんでいる。故にアリストテレスの純理を以て、これを理解することは不可能だった。そこでは感情と智慧が融化しており、分離することができないのだ。
このプラトンの観念こそ、それ自ら文芸上に於ける主観主義者のイデヤであって、またその観照に於ける法則である。前章に述べたように、主観主義者の観照は、常に感情と共に[#「共に」に丸傍点]働き、感情の中に[#「中に」に丸傍点]融化しており、主観と分離して考えられないところの、情趣の温かいものである。これに反してレアリズムの客観主義者は、智慧の透明さを感覚しつつ、観照を意識しつつ観照している。故に彼等は、それの透明を暈《くも》らすところの、すべての主観的なもの、情感的なものを追い出してしまう。彼等はアリストテレス的没主観の認識で、事物の本相に深く透入しようと考えている。
だから主観派と客観派とは、結局言ってそのイデヤする「真実」の意味がちがうのである。一方は宗教感的に、情感の線に触れる実在《レアール》を求めているのに、一方は純粋に知的であり、観照的に明徹した真実を探している。したがって両派の「真実」に関する意見は、いつもこの点で食いちがってくる。かの自然派が浪漫主義を非難したり、写実主義が空想的文学を虚偽視したりするのは、畢竟客観主義の意味によって「真実」を解するからで、プラトンの不幸な弟子、アリストテレスが師を理解し得なかったと同じであ
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