解りきってる話だから。ではこの「ため」は、「利用する」「役立てる」という意味になるのだろうか。過去の自然主義の文芸では、多分にそう解したらしい。だがそうとすれば、一層以て不可解であり、奇怪千万な謎語《めいご》である。なぜなら細民窟《さいみんくつ》のじめじめ[#「じめじめ」に傍点]した長屋住いや、おつけ[#「おつけ」に傍点]臭い所帯話やを書いた文学が、実生活のための利益になるということは、いかにしても考え得ないから。
読者にして常識あらば、今日の文壇でかかる啓蒙は無用であろう。文芸は、単に「生活を描く」ことによって「生活のため」と呼ばれるのでなく、生活に理念を有し、イデヤに向っての意欲を掲げることによって、特に「生活のための芸術」と呼ばれるのである。況《いわ》んや生活の語を狭義に解して、日常茶飯の身辺的記録の類を、没主観の平面描写によって書く文学が、何等「生活のための芸術」でないことは明らかだ。否、日本の文壇常識で言われる生活主義の芸術とは、一種の茶人的身辺小説のことであって、真の「生活のための芸術」とは、全然立場を反対にする文学である。
真の意味で「生活のための芸術」と言われるものは、前説の如く主観の生活イデヤを追う文学であり、それより外には全く解説がないのである。故《ゆえ》に例えば、ゲーテや、芭蕉《ばしょう》や、トルストイやは、典型的なる「生活のための芸術家」である。かの異端的快楽主義に惑溺《わくでき》したワイルドの如きも、やはりこの仲間の文学者で「生活のための芸術家」である。なぜなら彼は、極《きわ》めて詩人的なるロマンチックの情熱家で、生涯を通じて夢を追い、或る異端的なる美のユートピアを求めていたから。然るに世人は、往々にしてワイルド等を芸術至上主義者と言い、芸術のための芸術家と称している。この俗見の誤謬《ごびゅう》について、ついでに此処《ここ》で一言しておこう。
元来「芸術のための芸術」という標語は、ルネサンスに於ける人間主義者《ヒューマニスト》によって、初めて、標語されたものであって、当時の基督《キリスト》教教権時代に、文芸が宗教や道徳の束縛を受けるに対し、芸術の自由と独立とを宣言した言葉であった。即ち人間主義者《ヒューマニスト》等が意味したところは、芸術が「教会のため」や「説教のため」でなく、芸術それ自体のために、芸術のための芸術として批判さるべきことを説いたのである。故に当時の意味に於ては、正統なる芸術批判の主張であって、もとより「生活のための芸術」に対する別の主張ではなかったのだ。
然るに当時の人間主義者《ヒューマニスト》等は、初めから基督教に叛逆《はんぎゃく》して立っていた為、この「芸術のための芸術」という語は、それ自ら反基督教、反教会主義の異端思想《ヘドニズム》を含蓄していた。即ち当時のヒューマニズムは、故意に神聖|冒涜《ぼうとく》の思想を書き、基督教が異端視する官能の快楽を追い、悪魔視される肉体の讃美《さんび》をして、すべての基督教道徳に反抗した為、彼等の標語「芸術のための芸術」は、それ自ら異端的の悪魔主義や官能的享楽主義やを、言語自体の中に意味するように考えられた。然るに「芸術」はそれ自ら「美」を意味する故に、此処に唯美主義とか、芸術至上主義とかいう言葉が、必然に異端的の快楽主義や、反基督の悪魔主義やと結ぶことになった。今日|尚《なお》十九世紀に於けるワイルドやボードレエルやを、しばしば唯美主義者と呼び、芸術至上派と呼び、「芸術のための芸術家」と言ったりするのは、実にルネサンス以来のヒューマニズムが、文壇的に伝統しているためである。
しかしながら言うまでもなく、こうした称呼はもはや、今日のものでなく、かのゴシック建築の寺院と共に、古風な中世紀の遺風に属している。今日の時代思潮に於ては、もはや「美」や「芸術」やの言語が、カトリック教的叛逆の「異端」を意味していない故に、我々の文壇がこうした古風の遺風の意味に於て、唯美主義や芸術至上主義を言語するのは馬鹿げている。今日の意味に於て、正しく唯美主義と言わるべき芸術は、人間感や生活感やを超越したところの、真の超人的なる芸術至上主義――即ち純一に徹底したる「芸術のための芸術」――についてのみ思惟《しい》されるのだ。
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* 生活 Life という言語が、日本に於てそうした卑近の意味に解されるのは、日本人そのものが非常に――おそらくは世界無比に――現実的の国民であって、日常起臥の身辺生活以外に、いかなる他の Life をも考え得ないからである。この現実的な思想は、俳句や茶の湯の如き、民族芸術の一切に現われている。特に茶道の如きは、日常起臥の生活を直ちに美化しようとするのであって、芸術的プラグマチズムの代表であり、日本人の Life に対する極端な現実的観念を、最もよく語っている。つまり「生活のための芸術」が、日本では茶道の精神で解されたのだ。
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第六章 表現と観照
以上各章にわたって、吾人《ごじん》は芸術に於ける二大|範疇《はんちゅう》、即ち主観主義と客観主義とを対照して来た。そしてあらゆる著るしいコントラストで、芸術の南極と北極とを対照した。しかしながら地球の極地は、一つの地軸に於て両端しており、人が想像するよりも、実には殆《ほとん》ど酷似している。芸術に於ける二つの極地も、決して外見のようではなく、実には同じ本質点で、互に共通しているのである。そしてこの共通点は、共にこれ等の芸術が成立している、表現に於ける根本のもの、即ち観照の智慧《ちえ》である。
吾人は前の章に於て、主観主義が情意本位の芸術であり、客観主義が観照本位の芸術であることを解説した。しかしいかなる主観主義の芸術も、本来観照なしに成立しないことは勿論《もちろん》である。なぜなら芸術は――どんな芸術でも――表現に於てのみ存在し、そして表現は観照なしに有り得ないから。明白に知れている事は、感情のどんな熱度も、決して表現を生み出さないということである。芸術に於て、感情はその動機――芸術を生もうとする熱意にすぎない。表現するものは感情でなく、この感情を鏡に照し、文学や音楽やに映すところの、知性に於ける認識上の才能である。
この事実を知るために、先《ま》ず音楽について考えよう。音楽は主観芸術の典型であり、純一に感情的な表現であるけれども、智慧のすぐれた観照なしには、その最も単純な小唄《リード》すら作り得ない。なぜなら音楽の表現は、音の高低強弱に於ける旋律とリズムを通じて、心の悲しみや喜びやを、それの気分さながら[#「さながら」に傍点]に描出するのであるから、音楽家が音によって心内の情緒を描くのは、画家が色や線やによって、外界の物象をさながら[#「さながら」に傍点]に描くと同じく、ひとしく対象の観照である。ただ両者の異なるところは、その対象が心内と外界と、時間と空間とに於ける別にすぎない。
抒情詩《じょじょうし》がこれにまた同じである。詩人にしてよく感情の機密を捉《とら》え、それの呼吸や律動やを真さながらに表現するのでなかったら、どうして詩が人を感動さすことがあり得ようか。そして「表現する」ことは、それ自ら「観照する」に外ならない。故にもし感情のみが高調して、これを観照する智慧が無かったならば、吾人は野蛮人や野獣のように、ただ狂号して吠《ほ》え、無意味な絶叫をするのみだろう。けだし詩人と一般人と、芸術家と一般人との、ただ一つの相違が此処《ここ》にある。前者はそれを表現し得[#「表現し得」に白丸傍点]、後者はそれを表現し得ない。
さればいやしくも表現があり、芸術があるところには、必ず客観の観照がある。実に伊太利《イタリー》の美学者クローチェが言う如く、認識(観照)に無きものは表現に無く、表現に無きものは認識にないのである。吾人は知らないことを書き得ない。そして「知る」ということは、芸術上の言語で「観照」を意味するのだ。故に「観照」と「表現」とは同字義《シノニム》であり、したがってまたそれが「芸術」とイコールである。実に人間のあらゆる生活《ライフ》は、ひとしく常に考え、ひとしく悩み、ひとしく感じ経験している。しかも大多数は表現し得ず、芸術家のみが為し得るのは何故か。これ彼等にのみ恵まれたる特殊の才能、即ち所謂《いわゆる》「芸術的天分」があるからである。
故に一切の芸術は、音楽であると美術であると、詩であると小説であるとを問わず、すべて皆観照によってのみ成立する。然るに観照されてるものは、その限りに於て客観的である故《ゆえ》に、言語の純粋の意味に於ける主観――もしそうした言葉が言えるとすれば――は、芸術上に於て存在しないことが解るであろう。此処に於てか吾人は、表現としての主観主義と客観主義とが、どこで特色を異にするかを、さらに今一度考え直して見ねばならない。
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李白《りはく》は長安の酒家に酔って、酒一斗詩百篇であったと言う。だがこの意味は、一方に酒を飲みつつ、一方に詩を書いていたということで、泥酔しつつ詩作したということではないだろう。酒に酔ってる時は、感情が亢進《こうしん》して世界が意味深く見えるけれども、実際には決してどんな表現もないのである。なぜならアルコールの麻酔が、観照の智慧を曇らしてしまうからだ。酔人には芸術がない。
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第七章 観照に於ける主観と客観
いかなる純情的主観主義の芸術でも、観照なしに表現の有り得ないことは、前章に述べた通りである。では主観主義と客観主義は、どこでその態度特色を異にしているのだろうか。表現に於ての観照を持つことでは、両者共に一致している。しかも自然派等のレアリズムの文学では、浪漫派等を称して感傷的と言い、客観性が無いと言って非難する。たしかに両派の観照に於ける態度は、根本に於てちがったところがなければならぬ。
然《しか》り。そこには一の明白な相違がある。即ち主観主義の芸術では、観照が観照として独立せず、いつも主観の感情と結びついてる。換言すれば彼等は、対象の物に就いて物を見ずして、それを自己の主観に引き入れ、気分や感情の中に融《と》かしてしまう。例えば恋愛詩を書いてる人は、恋愛の情緒の中に溺《おぼ》れており、その感激の高調で表現している。この場合に表現が、感情を言語の上に照らすところの、智慧《ちえ》の不断な観照と共に行われているということは、自ら意識的に自覚しないほどでさえある。対象が心内になく、外界にある場合も同様で、例えば西行のような詩人は、自然の風物について、自然それ自体を観照しているのではなく、いつも主観の感情を高調し、感情それ自身の気分の中に、自然を融かし込んでいるのである。
故《ゆえ》に彼等の認識は、知的に冷徹した認識でなく、感情の温かい靄《もや》の中で、いつも人懐《ひとなつ》かしげに霞《かす》んでいる。それは主観に融け込んでいる客観であり、知的に分離する事のできないものだ。然るにレアリズムの客観派では、こうした感情的態度が排斥される。彼等は物に就いて物を見、科学的冷静の態度に於て、観照を明徹にしようとする。故に主観を排斥し、感情によって物を見ずして、冷酷透明な叡智《えいち》によって、真に客観的に徹しようとするのである。故に前者の態度は、つまり「主観のための観照」であり、後者は「観照のための観照」である。
しかしながら実際には、真に「観照のための観照」を考えている芸術は、殆《ほとん》ど稀《ま》れにしか無いであろう。特に文学に於てはそうであって、たいていの多くの者は、この観照の背後に於て、別の主観が「意味」を主張しているのである。丁寧に説明すれば、そうした真実の世界をレアリスチックに描き出すことから、作家自身の情感している或る主観を、読者に訴え、暗示しようとしているのである。つまり言えば両者の相違は、前者が直接に主観を露出し、訴え、叫び、主張しているところのものを、後者は絵画のように描き出し、人生
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