る。
 先《ま》ず第一に、概念の最も判然としているものをあげれば、すべての所謂《いわゆる》「主義」がそうである。主義と称するものは――どんな主義であっても――観念《イデヤ》が抽象の思想によって、主張を定義的に概念づけたものであるから、あらゆるイデヤの中では、これが最もはっきり[#「はっきり」に傍点]している。しかしながら芸術の本質は、元来具象的なものであって、抽象的、概念的のものではない。故に後に述べる如く、概《おおむ》ねの芸術の掲げるイデヤは、「主義」と称する類のものでなくして、より概念上には漠然としているところの、したがってより具象上には実質的であるところの、他のやや異った類の観念である。しかしそれは後に廻して、尚《なお》「主義」についての解説を進めて行こう。
 さて人の知る通り、主義には色々な主義がある。たとえば個人主義、社会主義、無政府主義、国粋主義、享楽主義、本能主義、自然主義、ダダイズム、ニヒリズムなど、いくらでも数えきれないほど無数にあるが、すべて「主義」と名称のつく一切のものは、各々の人が掲げるイデヤであって、その主観に取っての「あるべき世界」を思想している。各々の主義者等は、これによって世界を指導し、改造しようと意思している。故に一切の主義は――どんな主義であっても――本来「理想的なもの」でなければならない。然るに世には「理想的なもの」に反対するところの、反理想主義の主義がある。即ち例えば、「現実主義」とか「無理想主義」とか「虚無主義」とか言う類の主義である。
 これはどうした矛盾であろうか? いやしくも人が主観を掲げ、或る理想への観念を持たない中は、主義と言う如きものはありはしない。然るに彼自身が主義であって、しかも理想を拒絶する主義とはどういうわけか? だがこの不思議は不思議でない。何となれば「理想を否定する主義」は、それを否定することに於て彼自身の理想(観念界《イデヤ》)を見出《みいだ》すからだ。例えば仏陀《ぶつだ》の幽玄な哲学は、一切の価値を否定することに於て、逆に価値の最高のもの(涅槃《ねはん》)を主張している。そして所謂ニヒリズムは、存在のあらゆる権威を否定しながら、逆にその虚無に権威を感じ、そこに彼自身のイデヤを見ている。ダダイズムの如きも「一切の主義を奉じない」と言いながら、その「主義を奉じない主義」を奉じてる。故に絶対の意味で言えば、世にイデアリズムでないところの、どんな主義も有り得ない。一切主義であるすべてのものは、それ自ら理想的であり、観念的であるのだ。
 しかし前に述べた通り、芸術は抽象的なものでなくして具象的なものであるから、純粋の意味の芸術品は、かかる「主義」と称する如き概念上のイデヤを持たない。芸術家の持てるイデヤは、もっと漠然としており、概念上には殆ど反省されないところの、或る「感じられる意味」である。芸術家は――純粋の芸術家である限り――決してどんな主義者でもない。なぜなら芸術は、主義を有することによって、真の「表現」を失ってしまうからである。以下このことを説明するため、観念に於ける「抽象的のもの」と「具象的のもの」と、即ち観念《イデヤ》としての抽象物と具象物とが、どこで如何《いか》に違ってるかを話してみよう。

        2

 具象的なるすべてのものは、種々雑多の複雑した要素から成立している。具象的(具体的)なる存在とは、実に多が一の中で融《と》け合い、部分が全体の中において、有機的に滲透《しんとう》混和して統一されたものに外ならない。然るに理智の反省は、これを概念によって分析し、有機的な統一を無機的に換え、部分を箇々の戸棚《とだな》に別《わ》け、見出しカードの抽斗《ひきだし》を付けて索引に便利にする。そこで必要の場合に応じ、吾人《ごじん》はこれ等の索引から、一つの戸棚を見附けて抽き出すのである。これ即ち「抽象」である。故《ゆえ》に概念的に抽象されたすべての者は、真の具体的のものでなくして、全体から切り離され、戸棚を設けて人為的に整理されたものであって、何の生命的なる有機感も持っていない。真の生命感ある「事実のもの」は、常に概念によって抽象されない、具象的のもののみである。
 そこで吾人の生活上で、常に感じてること、思ってること、悩んでいることは、それ自身としていつも具体的のものである。即ちそれは環境や、思想や、健康や、気分やの、種々雑多な条件から成立している。然るに人間の言語は、すべて抽象上の概念であり、事物の定義にすぎない故に、言語が概念として――即ち説明や記述として――使用される限りは、到底かかる実の思いを言い現わせない。かかる具体的の思いを現わすには、ただ絵具や、色彩や、音律や、描写や、文学やがあるのみだ。そうしてこれを吾人は「表現」と呼んでる。表現は即ち芸術である。
 すべての芸術家等が、人生に対して持ってるイデヤは、この種の生活感から欲情される真の具体的のものである。故にそれは主義者の持ってるそれの如く、議論されたり、説明されたり、概念されたりし得るものでない。主義としてのイデヤは、それ自ら抽象上の観念であり、人為的に区別された戸棚をもち、見出し附のカードをもった思想であるから、いつでも反省に照らし出され、自由に弁証され、定義上に説明することも可能であるが、芸術家の有するイデヤは、かかる無機物の概念でなく、実には分析によって補捉されない有機的の生命感である故に、全く説明もできず、議論もできず、単に気分上の意味として、意識に情念されているのみである。
 故に芸術家は、彼自身のイデヤについて、自ら反省上の自覚を持たない。換言すれば芸術家は、何を人生について情欲し、イデヤしているかを、自分自身に於て意識していないのである。況《いわ》んや他人に向って、かかるイデヤの何物たるかを、全然説明することが不可能である。ただ彼等のイデヤは、その音楽や、絵画や、小説やの、表現に於てのみ語られる。例えば歌麿《うたまろ》の絵画をみて、彼のイデヤがエロチシズムへの艶《なま》めかしき没落であることを、明らかにはっきり[#「はっきり」に傍点]と知り得るように、芸術の場合に於ては、表現のみが真実のイデヤを語る。そしてかく表現され得るものは、決していかなる概念をも有していない。概念を有するイデヤは、もはや具象的のものでなくして抽象であり、したがって「主義」の範疇《はんちゅう》に属している。
 故に芸術、及び芸術家に於けるイデヤは「観念」という言語の文字感に適切しない。観念という文字は、何かしら一の概念を暗示しており、それ自ら抽象観を指示している。然るに芸術のイデヤは、真の具象的のものであるから、こうした言語感に適切せずして、むしろ VISION とか「思い」とかいう語に当っている。そして尚《なお》一層適切には、「夢」という言語が当っている。そこで観念という文字の通りに、夢という文字にイデヤの仮名をつけ「夢《イデヤ》」として考えると、この場合の実体する意味がはっきり[#「はっきり」に傍点]と解ってくる。即ち芸術家の生活は「観念を掲げる生活」でなくして、「夢を持つ生活」なのだ。もしそれが前者だったら、芸術家でなくして主義者になってしまうであろう。
 多くの生命感ある芸術品は、すべて表現の上に於て、こうした具体的イデヤを語っている。例えばトルストイや、ドストイエフスキイや、ストリンドベルヒやの小説は、各々の作家の立場に於て、何かしらの或るイデヤを、人生に対して熱情している。吾人は彼等の作を通して、そうしたイデヤの熱情に触れ、そこに或る意味を直感する。しかもこれを言語に移して、定義的に説明することが不可能である。なぜならばそれは主義でなく、理想というべきものでもなく、ただ具体的の思いとして、非概念的に直感されるものであるから。そして芸術に於ける批評家の為《な》すべき仕事は、かかる具体的イデヤを分析して、これを抽象上に見ることから、或《あるい》はトルストイについて人道主義を発見し、ストリンドベルヒについて厭世観《えんせいかん》を発見したりするのである。
 同様のイデヤは、絵画についても、音楽についても、詩についても発見され、すべて本質は同じである。しかし就中《なかんずく》、詩は文学の中の最も主観的なものである故、詩と詩人に於てのほど、イデヤが真に高調され、感じ深く現われているものはない。詩人の生活に於けるイデヤは、純粋に具体的のものであって、観念によって全く説明し得ないもの、純一に気分としてのみ感じられる意味である。芭蕉《ばしょう》はこのイデヤに対する思慕を指して「そぞろなる思い」と言った。彼はそれによって旅情を追い、奥の細道三千里の旅を歩いた。西行《さいぎょう》も同じであり、或る充たされない人生の孤独感から、常に蕭条《しょうじょう》とした山家《やまが》をさまよい、何物かのイデヤを追い求めた。思うに彼等の求めたものは、いかなる現実に於ても充足される望みのない、或るプラトン的イデヤ――魂の永遠な故郷――へののすたるじや[#「のすたるじや」に傍点]で、思慕の夢みる実在であったろう。
 思うにこうしたイデヤは、多くの詩人に共通する本質のもの、詩的霊魂の本源のものであるか知れない。なぜなら古来多くの詩人が歌ったところは、究極に於ては或る一つの、いかにしても欲情の充たされない、生《ライフ》の胸底に響く孤独感を訴えるから。実に啄木《たくぼく》は歌って言う。「生命《いのち》なき砂の悲しさよさらさらと握れば指の間より落つ」「高きより飛び下りる如き心もてこの一生を終るすべなきか」と。彼の求めたものは何だろうか――おそらくそれは啄木自身も知らなかった。ただどこかに、或る時、何等か、燃えあがるような生活の意義をたずね、蛾《が》群の燈火に飛び込むように、全主観の一切を投げ出そうとする、不断の苛《いらだ》たしき心のあこがれ、実在のイデヤを追う熱情だった。されば彼の生涯は、芸術によっても満足されず、社会運動によっても満足されず、絶えず人生の旅情を追った思慕の生活、「何処にかある如し」「遂に何処にか我が仕事ある如し」の傷心深き生活だった。
 だが詩人にして、いずこか傷心深くないものがあるだろうか。支那《しな》の詩人は悩ましげにも、「春宵《しゅんしょう》一刻価千金」と歎息《たんそく》している。そは快楽への非力な冒険、追えども追えども捉《とら》えがたい生の意義への、あらゆる人間の心に通ずる歎息である。所詮《しょせん》するに詩人のイデヤは、他のすべての芸術家のそれに優《まさ》って、情熱深く燃えてるところの、文字通りの「夢」の夢みるものであろう。

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 浪漫主義と理想主義との、二つの類似した言語に於ける別が、イデヤに於ける具象と抽象との、はっきり[#「はっきり」に傍点]した差別を示している。即ち理想主義と言う言葉は、或る概念されたる、一の名目ある観念への理想を意味し、浪漫主義という言葉は、或る漠然とした、名目なきイデヤへのあこがれ[#「あこがれ」に傍点]を意味している。故に芸術家の主観にあっては、理想主義と言うものはなく、常に浪漫主義が有るのみである。

 ゲーテはそのエッケルマンとの対話に於て、次のようなことを語ってる。
「観念《イデヤ》だって? 私はそんなものは知らない。」
「独逸《ドイツ》人は私のところへ来て、ファウストの中にどういう観念を具体化しようとしたかと尋ねる。まるで自分がそれを知っていて言えるかのようだ。」
「私が自覚して、一貫した観念を表現しようとした唯一の作は親和力だろう。そのためあの小説は理解し易《やす》くはなったが、そのために善くなったとは言えない。むしろ文学的作品は、不可測であればあるほど、悟性で理解しがたければしがたいほど、善いものだと思っている。」
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     第五章 生活のための芸術・芸術のための芸術


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 芸術家の範疇《はんちゅう》には二つある。主観的な芸術家と、客観的な芸術家である。そして前者が常に観念《イデヤ
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