態度である。即ち形式音楽は「音楽としての美術」と言うべく、これに対する内容主義の標題楽は、正に「音楽の中での音楽」というべきだろう。
第三章 浪漫主義と現実主義
上来述べ来《きた》ったように、あらゆる一切の芸術は、主観派と客観派との二派にわかれ、表現の決定的な区分をしている。実にこの二つの者は、芸術の曠野《こうや》を分界する二の範疇《はんちゅう》で、両者は互に対陣し、各々の旗号を立て、各々の武器をもって向き合ってる。
人間の好戦的好奇心は、しばしばこの両軍を衝突させ、勝敗の優劣を見ようと欲する。しかしながら両軍の衝突は、始めより無意味であって、優劣のあるべき理由がない。なぜならば主観派の大将は音楽であり、客観派の本塁は美術であるのに、音楽と美術の優劣に至っては、何人も批判することができないからだ。もし或《あるい》は、強《し》いてこれを批判するものがありとすれば、それは単なる趣味の好悪《こうお》、個人としての好き嫌《きら》いにすぎないだろう。(あらゆる芸術上の主義論争は、結局して個人的な趣味の好悪にすぎないのである。)
然るにそれにもかかわらず、古来この両派の対陣は、文学上に於て盛んに衝突し、異端顕正の銃火をまじえ、長く一勝一敗の争論を繰返してきた。この不思議なる争闘は、けれども必ずしも無意味でなかった。なぜならばそれによって、表現に於ける二大分野の特色を明らかにし、相互の旗色を判然とすることができたからだ。よって激戦の陣地について、左右両軍の主張を聞き、突撃に於ける文学上の合図を調べてみよう。
文学上に於ける主観派と客観派との対立は、常に浪漫派と自然派、もしくは人道派と写実派等の名で呼ばれている。先《ま》ず客観派に属する文学、即ち自然主義や写実主義の言うところを聞いてみよう。
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・ 感情に溺《おぼ》れる勿《なか》れ。
・ 主観を排せよ。
・ 現実に根ざせ。
・ あるがままの自然を描け!
[#ここで字下げ終わり]
これに対して主観派に属する文学、即ち浪漫主義や人道主義の言うところはこうである。
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・ 情熱を以て書け!
・ 主観を高調せよ。
・ 現実を超越すべし。
・ 汝《なんじ》の理念を高く掲げよ!
[#ここで字下げ終わり]
両派の主張を比較してみよ。いかに両方が正反対で、著るしいコントラストをしているかが解るだろう。前者の正とするところは後者の邪であり、後者の掲げる標語は一方の否定するところである。そもそも何故《なにゆえ》に二つの主張は、かくも反対な正面衝突をするのだろうか。けだしこの異議の別れる所以《ゆえん》は、両者の人生に対する哲学――人生観そのもの――が、根本に於てちがっているからである。文学上に於けるすべての異論は、実にこの人生観の別から来ている。これを両方の者について調べてみよう。
客観派の文学、即ち自然主義や写実主義について見れば、人生は一つの実在であり、正にそれが有る如く、現実に於て見る如くである。そして生活の目的は、この現実的なる世界に於て、自然人生の実相を見、真実《レアール》を観照し、存在の本質を把握することに外ならない。故に芸術家としての彼等の態度は、この実に「あるがままの世界」に対して、あるがままの観照をすることにある。この生活態度は知的であり、認識至上主義であり、一切「真実への観照」にかかってる。即ちそれは「観照のための芸術」である。
然るに一方に於ては、浪漫主義等の主観派文学が、これとちがった人生観を抱《いだ》いている。この派の人々に取ってみれば、人生は現に「あるもの」でなく、正に「あるべきもの」でなければならない。この現実するところの世界は、彼等にとって不満であり、欠点であり、悪と虚偽とに充たされている。実に有るべきところの人生は、決してこんな態《ざま》であってはならない。真に実在さるべきものは、かかる醜悪不快の現実でなく、すべからくそれを超越したところの、他の「観念の世界」になければならぬ。故にこの派の人々にとってみれば、芸術はそれの理念に向って、呼び求めるところの祈祷《きとう》であり、或はこの不満なる現実苦から脱れるための、悲痛な情熱の絶叫である。それは何等「認識のため」の表現でなく、情意の燃焼する「意欲のため」の芸術である。
かく二つの芸術は、初めから人生観の根柢《こんてい》を異にしている。一方の者にとっては、凡《すべ》て現実する世界(あるところのもの)が真であり、美と完全と調和との一切が、それの観照に於て実在される。即ち彼等の主張によれば、実在《レアール》は「現実以外」にあるのでなく、「現実の中に」存在する。(したがって「現実を凝視せよ」という標語が言われる。)ところが一方の人生観では実在《レアール》が「現実の中に」あるのでなく、彼自身の理想の中に、観念の中に存するのである。言い換えれば、この現実世界は不満足のもの――肯定できないもの――であって、真に考えらるべき世界は、主観の構成する「観念の中に」実在する。(したがって「現実を超越せよ」という標語が言われる。)
この二つの異った思想に於て、読者は直《ただち》に希臘《ギリシャ》哲学の二つの範疇、即ちプラトンとアリストテレスを聯想《れんそう》するであろう。実にプラトンの哲学は、それ自ら芸術上の主観主義を代表し、アリストテレスは客観主義を代表している。即ちプラトンの思想によれば、実在は現実の世界になくして、形而上《けいじじょう》の観念界《イデヤ》に存するのである。故に哲学の思慕は、このイデヤに向ってあこがれ[#「あこがれ」に傍点]、羽ばたき、情熱を駆り立て、郷愁の横笛を吹き鳴らすにある。これに反してアリストテレスは、実在を現実の世界に認識した。彼はプラトンの説を駁《ばく》して真理を「天上」から「下界」におろし、「観念」から「実体」に現実させた。彼は実にレアリズムの創始者で、プラトンの詩的ロマンチシズムと相対の極を代表している。そしてこの二者の思想は、古来から今日に至るまで、尚《なお》一貫した哲学上の両分派で、おそらくはずっと未来にまで、哲学の歴史を貫通する論争の対陣だと言われている。そしてこの二者の議論が尽きない限り、芸術上における二派の論争も止《や》まないのである。
ともあれ吾人《ごじん》は、此処《ここ》に至って「主観主義」と「客観主義」との、芸術上における二派のイズムを分明し得た。要するに二派の相違は、その認定する宇宙の所在が、自我の観念《イデヤ》に於てであるか、もしくは現象界の実体に存するかという、内外両面の区別にすぎない。(これを音楽と絵画について考えてみよ。)然るに観念界に存するものは、常に自我(主観)と考えられ、現象界に存するものは、常に非我(客観)と思惟《しい》されるから、此処に主観派と客観派の名目が生ずるのである。前に他の別の章に於て、自分は心理学上の見解から、所謂《いわゆる》「主観」の何物たるかを述べておいたが、此処に至って実在論的の見地からも、主観の本性を知ることができるのだ。即ち主観とは「観念《イデヤ》」であって、自我の情意が欲求する最高のもの、それのみが真実であり実体であるところの、真の規範されたる自我《エゴ》である。故に「主観を高調する」とは、自己の理想や主義やを掲げて、観念《イデヤ》を強く主張することであり、逆に「主観を捨てよ」とは、そうした理想や先入見やの、すべてのイデオロギイとドグマを捨て、非我無関心の態度を以て、この「あるがままの世界」「あるがままの現実」を視《み》よということである。
ところでこの「主観を捨てよ」は、自然派その他の客観主義の文学が、常に第一のモットオとして掲げるところであるけれども、一方主観主義の文学に取ってみれば、主観がそれ自ら実在《レアール》であって、生活の目標たる観念である故に、主観を捨てることは自殺であり、全宇宙の破滅である。彼等の側から言ってみれば、この「あるがままの現実世界」は、邪悪と欠陥とに充ちた煉獄《れんごく》であり、存在としての誤謬《ごびゅう》であって、認識上に肯定されない虚妄《きょもう》である。何となれば、彼等にとって、実に「|有り《レアール》」と言われるものはイデヤのみ。他は虚妄の虚妄、影の影にすぎないからだ。
然るに、客観主義の方では、この影の影たる虚妄の世界が真に「|有る《レアール》」ところのもの――この非実在とされる虚妄の世界が、レアールの名で「現実」と呼ばれてる。即ちこの方の見地からは、現実する世界だけが真実であり、実に「|有り《レアール》」と言われるものであって、主観のイデヤに存する世界は、実なき観念の構想物――空想の幻影・虚妄の虚妄――と考えられる。故に両方の思想は反対であり、同じレアールという言語が、逆に食いちがって使用されてる。
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この両方の思想の相違を、最もよく説明するものは、プラトンとアリストテレスの美術論である。プラトンによれば、自然はイデヤの模写であるのに、美術はその模写を模写する故に、虚妄の表現であり、賤《いや》しく劣等な技術であるというのである。(彼が音楽を以て最高の芸術とし、美術を以て劣等の芸術と考えたのは、いかにもプラトンらしく自然である。)これに反してアリストテレスは、同じく美術を自然の模写であると認めながら、それ故[#「それ故」に傍点]に真実であり、智慧《ちえ》の深い芸術であると考えた。
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要するに客観主義は、この現実する世界に於て、すべての「現存《ザイン》するもの」を認め、そこに生活の意義と満足とを見出《みいだ》そうとするところの、レアリスチックな現実的人生観に立脚している。客観主義の哲学は、それ自ら現実主義《レアリズム》に外ならない。これに反して主観主義は、現実する世界に不満し、すべての「現存《ザイン》しないもの」を欲情する。彼等は現実の彼岸《ひがん》に於て、絶えず生活の掲げる夢を求め、夢を追いかけることに熱情している。故に主観主義の人生観は、それ自ら浪漫主義《ロマンチシズム》に外ならない。
かく芸術上に於ける主観主義と客観主義の対立は、人生観としての立場における、浪漫主義と現実主義の対立に帰結する。彼がもしロマンチストであったならば、必然に表現上の主観主義者になるであろうし、彼がもしレアリストであったならば、必然に表現上の客観主義者になるであろう。しかし言語は概念上の指定であって、具体的な事物について言うのでないから、単に概称してロマンチストと言い、レアリストと言う中には、特色を異にする多くの別種が混同している。例えば普通にレアリストと称されてる作家の中に、却《かえ》って本質上のロマンチストがいたりする。またロマンチストの中にも、理念を異にし気質を別にするところの人々が居る。以上次第に章を追って、これ等の区別を判然とするであろう。
第四章 抽象観念と具象観念
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前章に述べた如く、主観主義の芸術は「観照」でなく、現実の充たされない世界に於て自我の欲情する観念《イデヤ》(理念)を掲げ、それへの止《や》みがたい思慕からして、訴え、歎《なげ》き、哀《かな》しみ、怒り、叫ぶところの芸術である。故《ゆえ》に世界は彼等にとって、現にある[#「ある」に傍点]ところのものでなくしてあるべきところのものでなければならないのだ。
ではその「あるべきところの世界」は何だろうか。これすなわち主観の掲げる観念《イデヤ》であって、各々の人の気質により、個性により、境遇により、思想により、それぞれ内容を別にしている。そして各々の主観的文学者は、各々の特殊な観念《イデヤ》から、各自の「夢」と「ユートピア」とを構想し、それぞれの善き世界を造ろうと考えている。しかしながらこのイデヤの中には、概念の定義的に明白している、極《きわ》めて抽象的な観念《イデヤ》もあるし、反対に概念の殆《ほとん》ど言明されないような、或る縹渺《ひょうびょう》たる象徴的、具象的な観念《イデヤ》もあ
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