って何でもない。ただ「詩が実現されることの夢」であり、それへの思慕《エロス》にすぎないのだ。されば詩人の真精神は、常に「生活すること」に存するので、芸術すること、表現することにあるのでない。表現は詩人にとって、常に悲しき慰めの祈祷《きとう》にすぎないのだ。
かく考えれば、詩人の定義は「生活者」であって、「芸術家」でないことが解ってくる。しかし詩人といえども、表現者である以上には、一方に於てまた勿論《もちろん》芸術家だ。故に詩人と芸術家とは、円の外周に於て切り合うところの、二つの中心を異にする言語である。換言すれば詩人は、表現者としてのみ、芸術家の範疇に属すべき人物だろう。だが待て! 果して真にそうだろうか。この定義にまちがいはないだろうか。もし実にそうだとすれば、真に純粋の詩人と言うべきものは、ヴェルレーヌや李白のような芸術家でなく、何等そんな表現を持たないところの、真の雑《まじ》り気のない主観的生活者、即ち所謂「詩を作らない詩人」でなければならない。表現を持っている詩人は、一方に於て彼が芸術家であるだけ、それだけ詩人として不純である。既に前の章で述べた通り、あらゆる表現は観照であり、客観なしに有り得ない。詩もまた表現である以上は、客観なしに芸術し得ない。故に詩人の持っている主観は、真の純一の主観(感情そのもの)でなく、観照によって客観され、智慧《ちえ》によって表現に照し出されたところの、特殊の知的主観であり、言わば「客観されたる主観」「表現されたる主観」である。そしてこうしたものは、勿論純粋の主観と言えないのだ。純粋の主観、真の雑り気のない、生《き》一本の主観を常に持ってるものは、こうした表現者の詩人でなくして、行為によって生活を創作しようとするところの、他の「詩を作らない詩人」である。
されば真に純粋の意味で「詩人」と言うべきものは、一方に於て芸術家と切円している詩人でなくして、芸術とは全く円の分離している、他の主観的生活者――宗教家や、革命家や、冒険家や、旅行家や――の一群である。彼等の生活は行為である。そして行為には観照がなく表現がないゆえに、常に純粋の主観として一直線に徹底することができるのである。
だが我々は、言語のあまりに抽象的な、あまりに論理的《ロジカル》な概念を敬遠しよう。なぜと言って実際に「詩を作らない詩人」という如き命題は、「脊椎《せきつい》のない脊椎動物」というにひとしく、奇怪な言語上のトリックであり、事実としては無いところの、思弁上の抽象概念に属している。実に「詩」という言語は、芸術の表現にのみ言われるので、表現のない詩や、表現を持たない詩人などと言うものは、事実上に於てノンセンスである。畢竟《ひっきょう》こうした言葉が言われるのは、詩の本質に於ける精神――詩的精神そのもの――を形体なき世界に於て無限に拡大したからである。芸術は肉体と霊魂と、表現と精神との結合である。故に吾人《ごじん》は、肉体なき霊魂を考え得ず、表現なき「詩の幽霊」を思惟《しい》し得ない。詩は表現があってのみ、始めて詩と言われるのである。
それ故に「詩人」という語も、また常に「表現者」を指すのである。単なる「生活者」は、決して真の意味の詩人でない。実に詩人と言う[#「詩人と言う」に白丸傍点]語の正しい定義は、単なる生活者でもなく、単なる芸術家でもなく、その両方を一所の中心に持つところの、或る特別の人間を指すのである。換言すれば、詩人とは「訴えようとする主観者」と、「表現しようとする客観者」とが、相互に程のよい調和に於て、固く結合した人格を指すのである。然るにこの主観者と客観者とは、多くの場合に於て必ずしも一致しない。のみならず二つの天性はしばしば互に排斥し合い、矛盾し合いさえするのである。なんとなれば主観者は、それ自ら感情であり、烈《はげ》しい爆発的の行為に出ようとするところの、デオニソス的激情性のものであるのに、客観者は智慧であって、表現の観照に向うところの、静かな明徹したアポロ的理性であるから。そしてデオニソスとアポロとは、容易に普通の人格では、同棲《どうせい》することができないのである。
行為の詩人と表現の詩人とが、実に此処《ここ》から別れてくる。前者、即ち「詩を作らない詩人」たちは、純粋に主観的、感情的であるけれども、これを観照する客観性の智慧がない。故に彼等は、直ちにデオニソス的に爆発し、行動としての詩に走って行く。然るに芸術家の詩人にあっては、智慧がいつも背後におり、デリケートなるアポロ的静観者が見ている為、観念が行動の方に爆発しないで、表現の認識の方に移って行く。――人は無智であるほど勇敢であり、智慧があるほど臆病《おくびょう》である。――そしてこの分岐点から、実にドン・キホーテとハムレットが出来るのである。言うまでもなく芸術家は、すべてハムレットに属している。芸術家はだれでも、決してドン・キホーテたり得ない、運命の決定された素質を持っている。或は多少、それに近いものがあったにしても、所詮《しょせん》アポロ的デオニソスであり、ハムレット型ドン・キホーテたるにすぎない。即ち彼の大胆な行為の影で、智慧の臆病が眼をつぶっている。(セクスピア)
故に真に「天分ある詩人」とは、この主観者と客観者、生活者と芸術家とが、一の人格に於て完全に結合され、10[#「10」は縦中横]に対する10[#「10」は縦中横]の比例で、平衡を得たものでなければならない。もし一方の者が他に優《まさ》れば、彼は所謂「詩を作らない詩人」となり、もしくは逆に、芸術的才能のみあって詩的精神の欠乏している霊魂なき「詩を持たない詩人」になる。こうした不幸の例について、吾人は実に多くのものを見聞している。たとえば我が王朝の歌人|在原業平《ありわらのなりひら》は、日本無比な情熱的な恋愛詩人で、かつ藤原氏の専横に鬱憤《うっぷん》しつつ、常に燃ゆる反感を抱《いだ》いていた志士であり、あたかも独逸《ドイツ》の詩人ハイネに比すべき人であったが、彼の和歌はそれ程でなく、人麿や西行に比し、二流であることを免かれない。即ち定評されている如く、意《こころ》あまって言葉足らずで、表現の才能が、主観の六分しか尽していないのである。さらに彼の兄|行平《ゆきひら》に至っては、一層詩人的な情熱家であったにかかわらず、詩人としては殆《ほとん》ど無能で、漸《ようや》く末流の才能しか持ってなかった。そして彼等の反対のもの、即ち表現の才能が有りあまって、しかも詩的霊魂の欠ける詩人は、引例の煩《はん》までもなく、吾人の周囲到るところに発見できる。
故に詩人の資格たるべき方程式は、
[#天から2字下げ][#ここから横組み]主観者(生活者)+客観者(芸術家)=詩人[#ここで横組み終わり]
で無ければならず、かつその主と客との数値はできるだけ同等でなければならない。古来すべての偉大な詩人は、この調和に於て完全であり、かつ二つの数値を、共に多量に有していた。(それの数値が大であればあるほど、二者の加算たる和が大きくなる。)例えば*芭蕉や、ゲーテや、ニイチェや、ランボー、李太白《りたいはく》やが、悉《ことごと》く皆そうであった。彼等は一方で熱烈なる生活者であり、人生の夢を追って一貫した詩人でありながら、一方には常に純粋な芸術家で、表現に苦心し、観照に徹しようとした真の芸術家であったのだ。実にもしそうでなかったら、いかなる価値ある作品も、彼等によって残されずにしまったろう。されば要するに詩人とは、生活者と芸術家との混血児で、しかも両者の血を多量に受けた、矛盾の中の美しい調和である。
[#ここから3字下げ]
* 芭蕉は10[#「10」は縦中横]の生活者と10[#「10」は縦中横]の芸術家との、完全に調和した詩人である。然るに彼の亜流者等は、師から芸術至上主義の一面を見、単にその点のみを学んだ為、蕉門俳句をして後世の悪風流に堕落させた。
[#ここで字下げ終わり]
第十四章 詩と小説
吾人《ごじん》が文学と称するものの中には、詩、*評論(章尾の註参照)、随筆、エッセイ、戯曲、小説等の種類がある。しかしこれ等の中、文学の両極を代表する形式は、詩と小説との二つであり、他はその中間的のものにすぎない。実に詩と小説とは、文学における南極と北極、即ち主観主義と客観主義との両極を、判然として対照している。吾人は特に、この関係について述べねばならない。
前に他の章(芸術に於ける詩の概観)で説いたように、概《おおむ》ねの小説は、本質に於て主観的な詩的精神に情操している。故《ゆえ》にこの限りで見るならば、小説もまた詩と同じく、広義に主観的な芸術と言わねばならない。けれどもこの場合の主観性は、創作の背後に於ける態度であって、事実に面した観照の態度ではない。観照の態度としては、殆《ほとん》ど小説の約束された形において、すべての作品が悉《ことごと》く皆客観的である。実に小説の小説たる所以《ゆえん》のものは、この観照に於ける客観性と言うことに存するのだ。(もし小説が客観的でなかったら、それは詩――散文詩――になってしまう。)
詩と小説とはこの点に於て実に判然たる区別を持っている。詩は本質上に主観的の文学であり、単に態度の上のみでなく、観照それ自体が主観的である。即ち詩にあっては、対象が対象として観察されず、主観の気分や情緒によって、感情として眺《なが》められる。反対に小説では、これが主観から切り離され、純に知的な眼で観察される。故に同じ恋愛等を題材としても、詩ではこれが感情によって歌い出され、小説では事件や心理の経過として、外部の観察によって描出される。故にまたこの点から、一般に詩は「感情のもの」と言われ、小説は「知的のもの」と考えられている。
けれどもこの関係から、小説家が詩人に比して、より知的な人物である如く考える人があるならば、驚くべき笑止な誤謬《ごびゅう》である。智慧《ちえ》の優劣について言うならば、詩人はむしろ小説家に秀《すぐ》れていても劣りはしない。なぜなら前に他の章(観照に於ける主観と客観)で述べたように、認識上に於ける主観と客観との相違は、智慧が感情に於て結合していると、感情から独立して有るとの相違にすぎず、その知性の働く実質には、なんの変りもないからである。ただ様式上の相違のために、詩は感情によって歌い出され、小説は客観によって描出される。しかもこの様式上の相違が、詩人と小説家とを区別するところの、根本の態度を決定する。
詩人は常に、世界を主観的に眺める為めに、認識が感情と結合しており、小説家の如くレアリスチックに、真の客観された存在を観照し得ない。反対に小説家は、何物に対しても客観的で、外部からの知的な観察を試みる。故にまた小説家は、詩人の住んでる「心情《ハート》としての意味の」世界に這入《はい》り得ない。そこで結局、詩人には真の小説が創作されず、小説家には真の詩が作れないということになる。小説家の作った詩――彼等はよく俳句や歌を作る――は、概して観照に徹しており、修辞が凝り性に行き届いているにかかわらず、どこか或る根本のところで、詩の生命的要素を持たず、音の無い釣鐘《つりがね》という感がする。蓋《けだ》し彼等は、詩を「心情《ハート》」で作らないで、知的な「頭脳《ヘッド》」で作るからだ。反対にまた詩人の書いた小説は、観照が主観の靄《もや》でかすんでいるため、どこか感じが生《なま》ぬるく、真の小説的現実感に徹しない。
かく考えれば詩人と小説家との一致点は、人生観に於ける本質の「詩」だけであって、芸術家としての態度に於ては、全然素質のちがうことが解るであろう。小説の立場は、人生の真実をレアリスチックに見ようとするのであるから、すくなくとも観照上では、主観的なセンチメントを一切排斥せねばならぬ。この点で自然主義は、小説の正に小説すべき典型の規範を教えている。小説が小説たるためには、観照の形式上で、詩から遠く離れるほど好いのである。小説にして詩であるものは、一種の「生《な
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