そして絶後の主観的高調時代であった。(だから当時の詩壇には、蒲原有明《かんばらありあけ》、北原白秋の如き秀才が一時に出た。)しかしながら日本に於ては、もとよりこうした現象は一時にすぎない。舶来の自然主義は、その新鮮なるバタの臭いがぬけると同時に、たちまち日本人伝統の気風に融化し、全く主観的精神のない、純粋なる客観的観照主義の文学になってしまった。かくてこの逆説的精神を失った自然主義は、それの芸術論が主張するレアリズムを、文字通りに徹底させようと考えた。換言すれば、一切の主観と**詩的精神とを、文学の根本から根こそぎに抜き去ろうと考えた。かくて遂に、初期に於ける情熱性は排斥され、ゾラやモーパッサンの開祖でさえ、あまりに感傷的であるとして非難された。
こうした文学の立脚地は、真の徹底的客観主義で、純粋に芸術なる態度――即ち「芸術のための芸術」――に志ざすものである。そして古来、日本の文学の立場は多く皆|此処《ここ》にあった。即ち日本の文学者には、西洋人の如き人生観的な詩人情熱がなく、代りに芸術至上主義的な「名人意識」が強いのである。この名人意識の点では、独り文学に限らず、あらゆる一般の芸術にわたって、日本人の世界に誇り得る長所である。此処で吾人は、芸術に於て必然さるべき二つのヒューマニチイを説こうと思う。
前章に述べた如く、芸術の種目は二つしかない。「詩」とそして「美術」である。あらゆる一切の芸術は、その本質上の特色からみて、所詮《しょせん》この二つの範疇《はんちゅう》の中、何《いず》れかに属するものでなければならない。もし主観的のもの(生活のための芸術)であったら前者に属し、客観的のもの(芸術のための芸術)であったら後者に属する。そして前の芸術であるならば、熱烈なる主観の詩的精神が無ければならず、後の芸術であったならば、美術家の有する如き真の観照的な芸術良心――即ち名人意識――が無ければならない。この二つのものこそ、芸術に於ける必須のヒューマニチイであって、必らず一切の芸術家は、この両者の中の何れかを――すくなくともその何れか一つを――持たねばならぬ。もしその両方が無いならば、詩も美術も、主観芸術も客観芸術も、共に精神上に無いのである。
そこで今言う如く、西洋の多くの芸術家は、概して前の方のヒューマニチイ、即ち詩的精神を多量にもち、これによって作品を生命づけてる。反対に日本の芸術家等は、昔から多く後者に属し、芸術至上主義的な名人意識で、観照の妙境に到達している。吾人はこの二つのものに於て、価値の批判を試み得ない。なぜならどっちも同等に偉いのだから――。ただしかし、だれにも明白に解ることは、そのどっちも真に持たない人間は、芸術家としてのヒューマニチイがないのであって、どんな批判の立場に於ても、軽蔑《けいべつ》にしか価しないと言うことである。
ところが痛快なことには、日本の現在する文学者等は、そのどっちも真に持っていないのだ。もちろん或《あるい》は、多少の生ぬるい程度に於て、両方共に持っているかも知れない。だが真に強く掲げられたヒューマニチイは、殆《ほとん》ど少数の人にしか、実際見ることができないのだ。例えば、詩人的な作家として、僅《わず》かに島崎藤村、谷崎潤一郎、武者小路実篤《むしゃのこうじさねあつ》、佐藤春夫、室生犀星《むろうさいせい》位であり、そして真の芸術至上主義者として、自殺した芥川龍之介、志賀|直哉《なおや》等を数えるにすぎないだろう。概《おおむ》ね現代の文学者は、詩人でもなく美術家でもない、中途半端で雑駁《ざっぱく》なデモ文士にすぎないのである。
こうした雑駁な文学者に比べるとき、昔の名人意識で一貫した日本の芸術家が、いかにすぐれて偉かったかと言うことを痛感する。現代日本の堕落は、生じっか西洋の主観的な生活主義が輸入されて、しかもこれを本質的に理解し得ず、皮相な概念でまごついている時、一方に自家の芸術良心を相殺《そうさい》して、結局西洋流の生活文学にもならず、日本流の名人芸術にもならないところの、似而非《えせ》の曖昧《あいまい》文学で終ってしまっているところにある。我が国現代の文壇は、実にこうした蒙昧《もうまい》期にある。
さればかかる文壇から、詩が常に虐遇されることは当然である。文壇がむしろ真にレアリズムに徹底して、痛烈なる芸術至上主義に立つならば、すくなくとも日本の詩人は、今少しよき境遇に有り得るだろう。なぜなら芸術の南極と北極とは、その極端のゆえにかえって相通ずるからだ。――芥川龍之介を見よ。彼は文壇に於ける唯一の詩の理解者だった。――自然派以来の我が文壇と文学とは、その芸術的ヒューマニチイを失っていることによって、全然まったく、詩的精神と交渉がないのである。
[#ここから3字下げ]
* 日本人には宗教感や倫埋感がないから、したがって真のデカダンやダダイストも無いのである。デカダンやダダイストは、宗教感の線外にいる人物ではなく、同じ一つの線の上で、それと向き合っている反動家である。故に彼等について、その一端を叩《たた》けば他の反対が上ってくる。著者の知ってる限り、日本に真のデカダンは一人しかない。生活者の辻潤である。
** 日本の文学者は、詩的精神の喪失を以て老成の証左と考えている。これが西洋流の啓蒙観なら好いけれども――それだったら別の詩的精神が、他の一端で高調されている筈である。――日本のはそうでなく、根本的に詩そのもの、ヒューマニチイそのものを紛失させて、俗物的に納ったり、野狐禅《やこぜん》的に悟り顔をすることで、自ら得意としているのだからたまらない、畢竟《ひっきょう》彼等は、自然主義の精神を履《は》きちがえているのである。世に逆説の精神を知らずして、逆説を学ぶほど危険はない。この意味から日本の文壇は、自然主義によって堕落させられたと言い得るだろう。
[#ここで字下げ終わり]
第十三章 詩人と芸術家
詩人は芸術家であるか? と言う質問は、ヴァイオリンは楽器であるかという質問に同じく、馬鹿馬鹿しくとぼけ[#「とぼけ」に傍点]て聞える。だがこの質問は、いつでも我々詩人にとって、真面目《まじめ》に、本気に、提出される疑問である。なぜなら我々は、実際に芸術家でないところの、多くの本質的な詩人を知っているからだ。彼等は芸術的な表現を持っていない。然も気質的には、どんな詩人にも劣らぬような、情熱の高いイデヤをもち、不断のロマンチックな夢にあこがれ、常に純一な主観を高調している。例えば耶蘇《ヤソ》やマホメットのような宗教家、コロンブスやマルコ・ポーロのような旅行家、ソクラテスやブルノーのような情熱哲学者、孔子《こうし》や老子のような人間思想家、吉田|松陰《しょういん》や雲井|龍雄《たつお》のような志士革命家を指すのである。
彼等は実際に芸術家じゃない。否|或《あるい》は多少の芸術家であるかも知れない。だが一二の拙い詩を作ったソクラテス、記録的な旅行記を書いたマルコ・ポーロを、実の定評ある文学者に比較する時、前者が批判外に属するのは明らかだ。何人《なんぴと》も、何《いず》れが芸術家であるかという質問に対して、躊躇《ちゅうちょ》なく後者を答えるだろう。しかしながら質問の言葉を換えて、もし何れが詩人的な人物かと聞くならば、おそらく何人も、多少の困惑と躊躇なしに、答えることができないだろう。実際あの浪漫的な空想旅行家マルコ・ポーロやコロンブスが、職業的文士たる小説家等に比して、人物的に詩人でないということはだれも言えない。否その点で言うならば、むしろ却《かえ》って彼等の方が、気質的の詩人であるか解らない。著述として見ても、宗教の経典や、プラトンの哲学や、老子の道徳経や、マルコ・ポーロの旅行記やの方が、写実主義的な美術や小説の類に比して、より多く詩的であり、詩という言語の本質感に接近している。
かく考えれば、詩と芸術、詩人と芸術家とは、必ずしも同一異名の言語でなくして、どこかに或る質の違った、精神を別にするものがあるように思われる。すくなくとも「詩」の定義は、「芸術」の定義と同じでない。もしそうならば、宗教の経典や、或る種の哲学書のような、純粋の意味で芸術品と言えないものが、より純粋であるところの、真の芸術品たる美術や小説の類に比して、却って詩的であると言うことは不思議であり、認識上の混乱した矛盾になる。故に詩と芸術とはたしかに別々の言語に属し、厳重の意味に於て区別される。そこで次に起る問題は、詩人とは何ぞや? 芸術家とは何ぞや? という、二つのはっきり[#「はっきり」に傍点]した質問である。先《ま》ず前の問から答えて行こう。
詩人とは何だろうか? 言うまでもなく詩人とは詩的精神を高調している人物である。では詩的精神とは何だろうか? それについては前に述べた。即ち主観主義的なる、すべての精神を指すのである。故に「詩人」の定義は、一言にして言えば「主観主義者」である。詳しく言えば、詩人とはイデアリストで、生活の幻想を追い、不断に夢を持つところの人間夢想家《ヒューマンドリーマア》。常に感じ易《やす》く情熱的なる人間浪漫家《ヒューマンロマンチスト》を指すのである。されば実の詩人は、常に空想的なる旅行家、冒険家、革命家、宗教家、哲学者等に見る範疇《はんちゅう》で、言語の純粋な意味に於ては、彼等こそ真の詩人と言うべきである。そして芸術家としての所謂《いわゆる》詩人も、この気質的なる本質では、常に彼等の人間夢想家《ヒューマンドリーマア》と一致している。例をあげてみよう。概《おおむ》ねの所謂詩人はその通りで、悉《ことごと》く皆一種の求道者であり、旅行家であり、哲学者であり、革命家であり、実在的ニヒリストであり、そして要するに情熱的なる人間生活者である。
世界の代表的なる詩人について、この事実を調べてみよう。先ず日本で言えば、芭蕉《ばしょう》や、人麿《ひとまろ》や、西行《さいぎょう》やが、そうであった。彼等は人生の求道者であり、生涯を通じてのロマンチックな旅行家だった。(日本の昔の詩人には、不思議に旅行家が多かった。彼等は自然について、心のイデヤする故郷を見ようとしたのだ。)外国に於て見れば、バイロンは正義に殉じた熱血児で、ハイネはプラトニックに恋愛を歌いつつ、革命に熱した人生の戦士であった。ゲーテ、シルレルは文字通りの哲学者で、かつ一種の宗教家でさえあった。ヴェルレーヌ、李白《りはく》に至っては典型的なる純情のニヒリストで、陶酔の刹那《せつな》に生を賭《か》け、思慕《エロス》の高翔《こうしょう》感に殉死しようとするところの、真《まこと》の「詩情の中の詩情」を有する詩人であった。キーツ、シェレー、マラルメの徒は、何れも象徴的なる実在主義者で、一種のアナアキズムの宗教家である。その他ボードレエルはカトリックの求道者で、同時に異端的な哲学者であり、ヴェルハーレン、ホイットマンは、一種の社会的志士であった。そして鬼才詩人ランボーは、僅《わず》かに三年間ほど文壇に居り、少数の立派な詩を書いた後で、直に彗星《すいせい》のように消えてしまった。なぜなら彼は、阿弗利加《アフリカ》の沙漠《さばく》の中で、より詩的な生活を行為しようと思ったから。彼は言った。「詩なんか書く奴《やつ》はくだらない」「真の詩人は詩を作らない」と。丁度我が石川|啄木《たくぼく》が、自分で詩人であることを自嘲《じちょう》しつつ、生涯慰められないで詩を書いていた。
されば「詩人」と言う言葉は、それ自ら「生活者」と言う意味に外ならない。彼等の実に尋ねているのは、芸術でなくして生活であり、真に心の渇《かわ》きを充たすべき、イデヤの世界の実現である。あらゆるすべての詩人は、彼の歓楽の酒盃《しゅはい》の中に、もしくは理想的社会の実現される夢の中に、生活のクライマックスを賭《と》して死のうとしている。それ故《ゆえ》に彼等は革命家であり、志士であり、デカダンであり、ニヒリストであり、旅行家であり、哲学者であるのだ。人生とは! 人生とは詩人にと
前へ
次へ
全34ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング