の縮図を見せることから、主観に於ける作家の意味を、読者に暗示するのである。即ち前者の行き方は音楽であり、後者の行き方は絵画である。
 かく考えれば、所謂《いわゆる》客観主義の文学も、所詮《しょせん》は「主観のための観照」であり、他の者と選ぶところが無くなってくる。どっちにしても、結局の目的は主観であって、それを描き出すのが主だとすれば、間接のまだるっこい画など描かずに、直接の主観をじかに出して、露骨に訴えたり、叫んだり、主張したりする方が好いじゃないか、と多くの主観主義者は考えるのである。これによって彼等は、直ちに主義をひっさげて演説したり、人生観を評論したり、或《あるい》は尚《なお》一層主観的な詩人のように、まっすぐに直情そのものを露出して絶叫する。実に彼等は、気の短かい性急の人たちである。だがしかし一方では、こうした性急の詩人たちが、客観主義者によって憫笑《びんしょう》されてる。なぜならば客観主義者は、人生の真相を描くということ、そのこと自身に芸術的な別の興味を持ってるからだ。丁度すべての科学者が、真理の探求をイデヤしているにかかわらず、尚かつ実際には、科学すること自身、実験するこ
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