態度特色を異にしているのだろうか。表現に於ての観照を持つことでは、両者共に一致している。しかも自然派等のレアリズムの文学では、浪漫派等を称して感傷的と言い、客観性が無いと言って非難する。たしかに両派の観照に於ける態度は、根本に於てちがったところがなければならぬ。
然《しか》り。そこには一の明白な相違がある。即ち主観主義の芸術では、観照が観照として独立せず、いつも主観の感情と結びついてる。換言すれば彼等は、対象の物に就いて物を見ずして、それを自己の主観に引き入れ、気分や感情の中に融《と》かしてしまう。例えば恋愛詩を書いてる人は、恋愛の情緒の中に溺《おぼ》れており、その感激の高調で表現している。この場合に表現が、感情を言語の上に照らすところの、智慧《ちえ》の不断な観照と共に行われているということは、自ら意識的に自覚しないほどでさえある。対象が心内になく、外界にある場合も同様で、例えば西行のような詩人は、自然の風物について、自然それ自体を観照しているのではなく、いつも主観の感情を高調し、感情それ自身の気分の中に、自然を融かし込んでいるのである。
故《ゆえ》に彼等の認識は、知的に冷徹した認
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