度としては、芸術が慰安的な「悲しき玩具《がんぐ》」であろうとも、或は生命《いのち》がけな「真剣な仕事」であろうとも、批判する側には関係がなく、何《いず》れにせよ表現の魅力を有し、作品として感動させてくれるものが好いので、芸術の批判は芸術に於てのみなされるのだ。換言すれば芸術は――どんな態度の芸術であっても――芸術それ自体の立場から、芸術を芸術の目的で批判される。
では芸術が芸術として、芸術の目的から批判されるというのは、どういうことを意味するだろうか。言いかえれば芸術批判の規準点は、いったいどこにあるのだろうか。これに対する答は、一般に誰も知ってる通りである。即ち芸術の価値批判は「美」であって、この基準された点からのみ、作品の評価は決定される。そして此処《ここ》には、もちろんいかなる例外をも許容しない。いやしくも芸術品である以上には、悉《ことごと》く皆美の価値によって批判される。芸術の評価はこれ以外になく、またこれを拒むこともできないのである。
しかしながら美の種目には、大いにその特色を異にするところの、二つの著るしい対照がある。即ちその一つは純粋に芸術的な純美であって、他の一つは
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