準のよるところがないだろう。なぜならば或る者は宣伝の効果を主張し、或る者は商品販売の効果を重視し、或る者は教育上の効果を言い立て、各々の価値の批準がてんで[#「てんで」に傍点]にちがってくるから。
 されば芸術の批判にあっては、作家の態度の如何《いかん》を問わず、単に表現された作物から、芸術としての純粋価値――芸術としての芸術価値――を問うのである。今日赤色|露西亜《ロシア》の過激派政府は、盛んにボリシェヴィキーの宣伝芸術を出してるけれども、吾人《ごじん》のこれに対する批判は、宣伝効果の有無を問うのでなく、ひとえに芸術としての価値に於ける、魅力の有無を問うのである。所謂《いわゆる》教育映画や、伝染病予防の宣伝ポスター等に対する批判の規準点が、皆これに同じである。これらの場合に弁明して、単なる芸術[#「単なる芸術」に傍点]として書いたのでなく、社会意識の大義によって書いたから、そのつもりで高く――やはり芸術として――買ってくれと言う如き、前後矛盾した虫の好い要求は、到底受けつけられないのである。
「生活のための芸術」と「芸術のための芸術」とが、この点の批判でやはり同様である。作家自身の態
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