》を追い、人生に対して「意欲する」態度をとるに反し、後者が常に静観を持し、存在に対して「観照する」態度をとるのは、前に既に述べた通りだ。
 ところでこの前のもの、即ち主観的な芸術家等は、人生に対して欲情し、より善き生活を夢想するところから、常に「ある所の世界」に不満し、「あるべき所の世界」を憧憬《どうけい》している。そしてこの「あるべき所の世界」こそ、彼等の芸術に現われた VISION であり、主観に掲げられた観念《イデヤ》である。さればこの種の芸術家等は、何よりも観念《イデヤ》に於て生活し、観念《イデヤ》に於て実現することを望んでいる。彼等が真に願うところは、主観のかくも熱望する夢の中に、彼自身が実に生活し、実に現実することである。即ちイデヤがその生活の目標であり、規範であり、願望される一切の理想であるのだ。そして、芸術(表現)は、かかるイデヤに対するあこがれ[#「あこがれ」に傍点]であり、勇躍への意志であり、もしくは嘆息《たんそく》であり、祈祷《きとう》であり、或《あるい》は絶望の果敢《はか》なき慰め――悲しき玩具《がんぐ》――であるにすぎない。故《ゆえ》に表現は彼等にとって、真の
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