我《エゴ》である。故に「主観を高調する」とは、自己の理想や主義やを掲げて、観念《イデヤ》を強く主張することであり、逆に「主観を捨てよ」とは、そうした理想や先入見やの、すべてのイデオロギイとドグマを捨て、非我無関心の態度を以て、この「あるがままの世界」「あるがままの現実」を視《み》よということである。
ところでこの「主観を捨てよ」は、自然派その他の客観主義の文学が、常に第一のモットオとして掲げるところであるけれども、一方主観主義の文学に取ってみれば、主観がそれ自ら実在《レアール》であって、生活の目標たる観念である故に、主観を捨てることは自殺であり、全宇宙の破滅である。彼等の側から言ってみれば、この「あるがままの現実世界」は、邪悪と欠陥とに充ちた煉獄《れんごく》であり、存在としての誤謬《ごびゅう》であって、認識上に肯定されない虚妄《きょもう》である。何となれば、彼等にとって、実に「|有り《レアール》」と言われるものはイデヤのみ。他は虚妄の虚妄、影の影にすぎないからだ。
然るに、客観主義の方では、この影の影たる虚妄の世界が真に「|有る《レアール》」ところのもの――この非実在とされる虚妄の
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