二の理由としては、言語上の用法からくる誤解である。僕は論文を書く場合に、言語をできるだけ明晰《めいせき》にし、辞書が正解する通りの、最も普遍的な字義解によって使っている。けだし論文に於ては、言語を厳重の語義で使用し、一切の曖昧《あいまい》なる転化的用法や、人によって意味のちがう如き、すべての特殊的語義を排斥せねばならないからだ。然るに日本の詩壇では、言語が甚《はなは》だ曖昧に使用されてる。多くの詩人たちは、純粋に理論を重んずべき論文に就いてすらも、詩作上に於ける如き言語の表象性を濫用《らんよう》している。したがって日本の一般詩壇では、言語が甚だしく転用化され、語義が象徴的に漠然としている。たとえば「韻律《リズム》」という言語の如きも、本来は一定の規則正しき拍節を有するもの(時計のチクタク、心臓の鼓動の如き)を意味するのに、日本では自由詩以来でたらめ[#「でたらめ」に傍点]の意味に濫用され、散文的な自由律の文学にさえも、この韻律の語をあてはめたりする。もっと甚だしきは語意を内容的に転化させて、詩を思う心はリズムであるなど言う人さえある。
したがってまた日本では、「散文」「韻文」等の言語
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