永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。それは恐らく、我が国に於ける切支丹《キリシタン》の迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。(確かに吾人《ごじん》は詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門の匂《にお》いを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑《けいべつ》されているのではない。何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒涜《ぼうとく》され、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔に唾《つばき》かけられているのである。我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的の故《ゆえ》に嘲笑《ちょうしょう》され、文壇的|人非人《にんぴにん》として擯斥《ひんせき》された。
 こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯《ひきょう》なおどおど[#「おどおど」に傍点]した人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。丁度あの切支丹が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々の虐《しい》たげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。そして詩的精神は隠蔽《いんぺい》され、感
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