い、不規則にして自由律な文学を指定している。故にこの形式上の区別からみて、自由詩は明らかに散文に属しているのだ。けれども内容の上から見れば、自由詩は決して所謂散文(即ち小説や感想の類)と同じでない。また形式上から考えても、これ等の普通の散文と自由詩とは、どこかの或る本質点でちがっている。そしてこのちがうところは、一方が「描写本位――または記述本位――の文学」であるに対して、自由詩が音律美を重視する「音律本位の文」であるということである。
そこで韻文という言語の意義を、辞書的の形式観によって解釈せずして、より一義的な本質観によって解釈すれば、自由詩は正《まさ》しく韻文の一種であって、散文と言わるべきものでなくなってくる。つまり言えば自由詩は、不規則な散文律によって音楽的な魅力をあたえるところの[#「不規則な散文律によって音楽的な魅力をあたえるところの」に丸傍点]、一種の有機的構成の韻文[#「有機的構成の韻文」に丸傍点]である。そしてこの「有機的構成の韻文」と言うことが、自由詩の根本的な原理である。即ちそれは有機的である故に、形式律の法則によって分析されず、数学的の計算によって割り出され
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