。然るに現詩壇の常識は、極《きわ》めてこの点があやふや[#「あやふや」に傍点]であり、朦朧《もうろう》漠然とした雲の中で、認識が全く失踪《しっそう》している。殆《ほとん》ど多くの詩人等は、何が真に自由詩であり、何が散文であるかの、判別さえも持っていない。そしてこの認識的|蒙昧《もうまい》から、詩の質と価値とは次第に低下し、しかもこれを破邪顕正《はじゃけんしょう》すべき正見がない。実に今日の詩壇に対して言うべきことは、詩人が自由詩の「創作」をもつことでなくして、自由詩の「評論」をもつことである。なぜならば前者の堕落は、後者の批判なくして救い得ないから。
自由詩の何物たるかは、既に前の章(韻文と散文、その他)で概説した。しかし今一度、大切な点をはっきり[#「はっきり」に傍点]しておこう。大切なことは、自由詩が辞書の正解する韻文に属しないで、より広義の解釈による、本質上での韻文に属するということである。辞書の正解する、言語通りの意味の韻文とは、一定の法則されたミーターやスタンザを持ったところの拍節《リズム》の正規的な形式文学を指すのである。そしてこれに対する散文とは、かかる形式的な法則がな
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