せる場合に於て、内部的なデリケートな繊維律は、何等の能力をも有し得ないから。それでは五七や七五の代りに、他の六四、八五等の別な音律形式を代用したらどうだろうか。考えるまでもなく、これはどっちも同じことだ。今日西洋音楽に唱歌するため、しばしば六四調や八五調の韻律されたものを見るけれども、その単調なことは何《いず》れも同じく、却って七五音より不自然だけが劣っている。
そこで最後に考えられることは、一つの詩形の中に於て、五七を始め、六四、八六、三四等の、種々の変った音律を採用し、色々混用したらどうだろうということだ。この工夫は面白い。だがそれだったら、むしろ始めから韻律を否定するに如《し》かずである。なぜなら一つの文の中で、八六、三四、五七等の、種々雑多な音律を取り混ぜるのは、それ自ら散文の形式だからだ。韻文の韻文たる所以《ゆえん》のものは、一定の規則正しき法則《ルール》によって、反復や対比やの律動を持つからである。雑多の音律が入り混った不規則のものだったら、すくなくとも辞書の正解する「韻文《バース》」ではない。即ちそれは「散文《プローズ》」である。
故にこの最後の考は、詩の音律価値を高
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