》は涙もろくなり、情緒に溺《おぼ》れ、哀切耐えがたくなって、嗚咽《おえつ》する。ニイチェの比喩《ひゆ》を借りれば、音楽こそげにデオニソスである。あの希臘《ギリシャ》的狂暴の、破壊好きの、熱風的の、酩酊の、陶酔の、酒好きの神のデオニソスである。
これに対して美術は、何という静観的な、落着いた、智慧《ちえ》深い瞳《め》をしている芸術だろう。諸君は音楽会の演奏を聴いた後で、直ちに美術展覧会に行き、あの静かな柔らかい落着いた光線や気分の中を、あちこちと鑑賞しつつ歩いた時、いかに音楽と美術とが、芸術の根本的立場に於て、正反対にまで両極していることを知ったであろう。会場の空気そのものすらが、音楽の演奏では熱しており、聴客が狂気的に感激している。そして美術の展覧会では、静寂として物音もなく、人々は意味深げに、鑑賞の智慧|聡《ざと》い瞳《め》を光らしている。かしこには「熱狂」があり、此処には「静観」があり、一方には「情熱」が燃え、一方には「智慧」が澄んでる。
実に美術の本質は、対象の本質に突入し、物如の実相を把握しようとするところの、直覚的認識主義の極致である。それは智慧の瞳を鋭どくし、客観の観照
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