さて以上述べたことは、欧洲の詩壇についての観察だが、最後に日本の詩派について一言したい。なぜなら日本に於ても、象徴派とか高蹈派とか、或は未来派とかダダイズムとか言う如き、欧洲のそれと同名のものがあるからだ。これ等の和製詩派について、吾人は多く語るべき興味を持たない。日本に於ける大抵の文学流派は、皮相なジャーナリズムの影響であり、西洋新聞の文芸欄や政治欄を、新人気取りの新しがりと衒学《げんがく》さで、軽薄に受け取ったものにすぎないのだ。故に吾人の言うべきことは、日本に於ける象徴派や高蹈派等のものが、単にその名目上での一致の外、西洋の原物とは関係のない、或る特殊の別種であると言うことだけを、はっきり[#「はっきり」に傍点]と注意しておくに止める。
[#ここから3字下げ]
* 自由詩の起元は、欧洲に於ては象徴派である。しかしアメリカに於ては、これより先民衆詩人のホイットマンが、独自のユニックな散文詩形を創造している。けだしアメリカの如きデモクラシイの代表的国家に於て、早く自由律の詩が生れるのは当然である。
** 詩が美術に近く様式するのは、もちろん単に外観上の見えにすぎない。本質に於て
前へ
次へ
全334ページ中232ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング