よそよそ[#「よそよそ」に傍点]しい感である。故にすべて温熱の感の伴うものは、吾人の言語に於て「主観的」と呼ばれるのである。然るに温熱の感の所在は、それ自ら感情(意志を含めて)である故に、すべて主観的態度と言われるものは、必然に感情的態度を意味している。反対に情味のとぼしく、知的要素に於て克《か》ったものは、その冷感の故に客観的態度と言われる。例えば可憐《かれん》な小動物が苛《いじ》められているのを見て、哀憐《あいれん》の情を催し、感傷的な態度で見ている人は、その態度に於て主観的だと言われる。これに反して無関心の態度を取り、冷静な知的の眼でそれを見ている人は、客観的な観察をしていると考えられる。
そこで思いつかれるのは、こうして言語の解釈されてる、一般のありふれた様式である。一般に人々はこう考えている。主観とは自我に執する態度であり、客観とは自我を離れる態度であると。吾人はだれもこの思想を、普通に当然のことに思っている。だが考えてみれば、世の中にこれほど奇妙な思想はなかろう。なぜといって人間が分身術の魔法でも知らない限りは、自分で自分から離れるなどいう奇態な業《わざ》が、実際にできる
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