半ば客観的の文学と言わねばならぬ。
真に純一の詩というものは、こうした叙事詩の類でなくして、主観の感情それ自体を、直ちに卒直に歌うものでなければならないだろう。なぜならば詩の本質は、それ自ら主観の表現にあるからだ。そこで近代の短篇詩が取った道は、この主観への一直線な突進であり、感情それ自体の直接な発想だった。然るに感情そのものは、他の事件や題材を借りない限り、全く無形なる気分上のものに属するから、此処に近代の短篇詩は、著るしく気分的、情調的のものに傾向してきた。そしてこの傾向の押すところは、遂にメタフィジックの認識にふれ、必然に「象徴」への到達に導かれた。実に近代詩の特色は、その象徴的な点に於て著るしく、古代の抒情詩等と全く趣がちがっている。特に象徴派以後の新しい詩――写象派・心象派・未来派・立体派・表現派等――は、就中《なかんずく》象徴を以て表現の一義としている。故に吾人は、象徴の何物たるかを知らずして近代詩を論ずることができないのである。以下、次章に於てこれを述べよう。
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* 叙事詩と抒情詩とで、どっちが男性に属するかという事は、西洋で多くの文学者に論じら
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