稽《こうとうむけい》があるだろうか。ひとしく自画像である中にも、主観的態度の画風もあるし、純客観風の画風もある。画家にとってみれば、モデルが自分であると他人であるとは、あえて関するところでないのだ。文学にしてもその通りで、作者自身の私生活を描いたもの、必ずしも主観的文学と言えないだろう。或る浅薄な解釈者は、一人称の「私」で書いた小説類を、すべて主観的文学と言っているが、もしそうした小説に於て、「私」という言葉の代りに「彼」を置き、もしくは青野三吉という他人の固有名詞を入れ換えたら、単にそれだけの文字の相違で、主観小説が直ちに客観小説に変ってくるのか?
 常識のあるものは、だれもそんな馬鹿を考えない。或る小説に於て、主人公が「私」であろうと「彼」であろうと、文学の根本様式に変りはしない。或る作家が、もし科学的冷酷の態度を以て、純批判的に自己を観察し、写実主義のメスを振《ふる》って自己の解剖図を見せるならば、これをしも尚《なお》主観的描写と言い、主観主義の芸術と言うだろうか。この場合のモデルは自我であるにかかわらず、実には却《かえ》って客観描写とされるのである。これに反して或る作品は、自己
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