、道徳訓の類も同じである。これ等の文学に於ける作家は、始めから何の主観的感動なしに、純に事実のために事実を書き、教訓のために教訓を教えている。しかしながら作者が、こうした客観の態度でなく、もし自ら真に感動して、或る道徳や処世上の観念にまで、主観に於ける心情《ハート》の意味を直感したら、その表現はすくなくとも本質上の詩に属する。故に例えば孔子や耶蘇《ヤソ》の道徳訓には、時にしばしば本質上での詩と見るべき文字がある。これに反して或る小説家等の作る俳句が、技巧と着想の妙を尽し、観照の至境に入っているにかかわらず、何かしら物不足で、詩としての霊魂がないように思われるのは、認識の態度が純粋に客観的で、対象について対象を観照し、これを主観の心情《ハート》に融解することがないからである。(「詩と小説」参照)
以上述べたことによって、読者は似而非の詩と本物の詩、借用の韻文と実際の韻文とを、大体誤りなく判断することができるであろう。要するに真の詩は、「詩的の内容」が「詩的の形式」に映ったもので、この内容のない韻文は、実体なき欺瞞《ぎまん》の幻影にすぎないのである。けれども吾人は、作者に於ける主観的態度
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