識が曖昧《あいまい》漠然としているのである。此処で諸君は、その個人的なる――自分だけで合点しているような――観念を捨て、何よりも先ず常識として、辞書の正解するところを知らねばならぬ。辞書の正解するところの韻文とは、一定の規則正しき拍節をもち、一定の法則されたる押韻や脚韻を蹈み、対比によってシラブルや語数を整えているところの、特殊な定形律の文章を言うのである。そしてこの定形律を持たないもの、即ち自由の音律によって書かれたものは、それ自ら所謂「散文」である。
それ故に自由詩と称する詩が、言語の辞書的な解義に於て、始めから散文に属するのは明白である。少なくとも正確な意味で言われるところの、辞書の韻文には属してない。しかしながら自由詩は、何等か或る本質上の点に於て、普通の散文とはちがっているように思われる。そこで自由詩の解説は、常にしばしば「**無韻の韻文」「韻律なき韻律」の語で呼ばれている。だが自由詩の解説が、こうした言語の曲弁された、白馬非馬的のこじつけ[#「こじつけ」に傍点]をせねばならないというところに、その根本的の無理があることを考えてみよ。むしろ「無韻の韻文」などと言うよりは、は
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