言い得るだろう。
 しかしこうなってくると、問題はまた困難に紛乱してくる。なぜならばその意味での韻文は、あえて独《ひと》り詩ばかりでなく、散文にも同様に言い得るからだ。文学はすべて言語の「綴《つづ》り方」であり、そして綴り方のあるところには必然に文章の調子があり、節がありアクセントがあり、はずみ[#「はずみ」に傍点]がある。そしてこの点では、小説も論文も皆同じである。どんな文学でも、言語の音調を持たないものや、それを全く無視した文章は有りはしない。そしてこれらの散文に於ける音律は、何等一定の拍節形式を持たないところの、しかも根本に於ては音楽の原理に適っている――でなければ美しく聴《きこ》える筈がない――ところの、真の自由律の形式である。
 故に韻文という言語を、前に言ったような広義の意味で、ルーズに漠然と解する限りは、一切の散文が皆その概念に包括され、言語が全くノンセンスになってしまう。実に今の詩壇に於ける認識不足は、「韻文」「散文」の言語に対して、一も人々が定義を持っていないという事である。即ち本書の巻頭「詩とは何ぞや」で言ったように、かかる言語に対する解釈が、人によって皆異なり、認
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