述べたところによって、吾人《ごじん》は「生活のための芸術」と「芸術のための芸術」とを明解した。芸術上に於て言われるこの対語は、以上述べたことによってその本質を尽している。決してこれより他には、どんな別の解釈も有り得ないのだ。然るに日本の文壇では、不思議に昔から伝統して、あらゆる言語が履《は》きかえたでたらめ[#「でたらめ」に傍点]の意味で通っている。例えば芸術至上主義という語の如きも、日本では全く正体の見ちがった滑稽《こっけい》の意味に解されてるが、同様にこの「生活のための芸術」という語の如きも、殆《ほとん》ど子供らしく馬鹿馬鹿しい解釈で、昔から文壇に俗解されてる。この章のついでに於て、簡単に稚愚《ちぐ》の俗見を啓蒙《けいもう》しておこう。
日本の過去の文壇では、この「生活のための芸術」という命題を、単に「生活を描く芸術」として解釈した。これがため所謂《いわゆる》生活派と称する一派の文学が、僭越《せんえつ》にも自ら「生活のための芸術」と名乗ったりした。この所謂生活派の何物たるかは後に言うが、もし単に「生活を描く」ことが、生活のための芸術であるとすれば、東西古今、あらゆる一切の文芸は、悉《ことごと》く皆「生活のための芸術」に属するだろう。なぜならば生活、即ち Human−life を書かない芸術というものは、一として実に有り得ないからだ。即ち或る者は思索生活を、或る者は求道生活を、或る者は性的生活を、或る者は孤独生活を、或る者は社会生活を書いている。
しかし過去の日本文壇では、この「*生活」という語が狭義に解され、主として衣食のための実生活、もしくは起臥茶飯《きがさはん》の日常生活を意味していた。それで所謂「生活を描く」という意味は、米塩のための所帯暮しや、日常茶飯の身辺記事やを題材とするという意味であって、これが即ち所謂「生活派」の文芸だった。だが「生活のための芸術」ということは、本質に於てそうした文芸とちがっている。もしその種の文芸が、実に「生活のため」と言われるのだったら、この場合の「ため」は何を意味するのか。それが for の意味、即ち生活に向って、生活の目標のためでないことは明らかだ。なぜなら茶を飲んだり、無駄話をしたりする日常生活や、或《あるい》は単に米塩のために働らいてる生活、即ち単に「生きる」ための実生活やに、何のイデヤも目標もないことは、初めから
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