情は押しつぶされ、詩は全く健全な発育を見ることができなかった。「こうした暗澹《あんたん》たる事態の下に」自分は幾度か懐疑した。「詩は正《まさ》に亡《ほろ》びつつあるのではないか?」と。それほど一般の現状が、ひどく絶望的なものに見えた。
けれども今や、詩を求めようとする思潮の浪《なみ》が、新しい文学から起ってきた。すべての新興文学の精神は、すくなくとも本質に於ける詩を叫んでいる。おそらくは彼等によって、文学の風見《かざみ》が変るだろう。そして我々のあまりに鎖国的な、あまりに島国的な文壇思潮が、もっと大陸的な世界線の上に出てくるだろう。実に自分は長い間、日本の文壇を仇敵視《きゅうてきし》し、それの憎悪《ぞうお》によって一貫して来た。あらゆる詩人的な文学者は――小説家でも思想家でも――日本に於ては不遇であった。のみならず彼等の多くは、自殺や狂気にさえ導かれた。――正義は復讐《ふくしゅう》されねばならない。
だが既に時期は来ている。何よりも民衆が、文学に於ける詩を求めている。彼等は文壇を見捨ててしまった。そしてより[#「より」に傍点]詩的精神のある彼等の文学――即ち大衆文学――の方に走って行った。我々の進歩した民衆は、もはや文壇に於ける芸術的な、そしてあまりに芸術的であることによって、精神の詩を持たないような文学書類を、一切読もうとしないだろう。一方文壇の内部からは、あの小児病的情熱の無産派文学が興ってきて、過去の死にかかった文壇に挑戦《ちょうせん》している。あらゆるすべての事情が、今や失われた詩を回復し、文学の葬られた霊魂を呼び起そうとしているのだ。正義は復活されるであろう。
この新世紀の朝に際して、自分がこの書物を出版するのは、偶然にも意義の深いことと言わねばならぬ。自分はこの書物に於て、詩に関する根本の問題を解明した。即ち詩的精神とは何であるか、文学のどこに詩が所在するか、詩の表現に於ける根本の原理は何であるか、詩と他の文学との関係はどうであるか、そもそも詩と言われる概念の本質は何であるか、等々について、思考の究極する第一原理を論述した。故に標題の示す如く、正に『詩の原理』であるけれども、普通に刊行されてる詩書の如く、単に韻律音譜の註《ちゅう》であったり、名詩の解説的批判であったり、初学者の入門的手引であったり、或は独断的詩論の主張であったりするものとは、全然
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