重荷をおろし、漸《ようや》く呼吸《いき》がつけたわけだ。何という重苦しい、困難な荷物であったろう。自分はちかって決心した。もはや再度こうした思索の迷路の中へ、自分を立ち入らせまいと言うことを。
 自分はこの書物の価値について、自ら全く知っていない。意外にこの書は、つまらないものであるか知れない。或《あるい》はまた、意外に面白いものであるか知れない。そうした読者の批判は別として、自分は少なくともこの書物で、過去に発表した断片的の多くの詩論――雑誌その他の刊行物に載る――を、殆ど完全に統一した。それらの詩論は、たいてい自分の思想の一部を、体系から切断して示したもので、多くは暗示的であったり、結論が無かったりした為に、しばしば読者から反問されたり、意外の誤解を招いたりした。(特に自由詩論に関するものは、多くの人から誤解された。)自分はこれ等の人に対し、一々答解することの煩《はん》を避けた。なぜなら本書の出版が、一切を完全に果すことを信じたからだ。この書物に於てのみ、読者は完全に著者を知り、過去の詩論が隠しておいた一つの「鍵《かぎ》」が、実に何であったかを気附くであろう。
 日本に於ては、実に永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。それは恐らく、我が国に於ける切支丹《キリシタン》の迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。(確かに吾人《ごじん》は詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門の匂《にお》いを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑《けいべつ》されているのではない。何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒涜《ぼうとく》され、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔に唾《つばき》かけられているのである。我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的の故《ゆえ》に嘲笑《ちょうしょう》され、文壇的|人非人《にんぴにん》として擯斥《ひんせき》された。
 こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯《ひきょう》なおどおど[#「おどおど」に傍点]した人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。丁度あの切支丹が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々の虐《しい》たげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。そして詩的精神は隠蔽《いんぺい》され、感
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