に「詩」として移さねばならないのだ。
 何よりも我々は、すべての外国文明が立脚している、一つの同じ線の上に進出せねばならないのだ。そしてこの一つの線こそ、主観を高調する叙事詩的《エピカル》の精神であり、日本人が欠陥している貴族感の情操である。すべてに於て、我々は先《ま》ずこの文明情操の根柢《こんてい》を学んでしまおう。そしてこの同じ線の上から、あらゆる反対する二つのもの――個人主義と社会主義、貴族主義と民衆主義、理想主義と現実主義――とを向き合わせ、同一軌道の上で衝突させよう。実に吾人の最大急務は、西洋のどんな近代思潮を追うことでもなく、第一に先ず吾人の車を、彼等の軌道の上に持って行き、文明の線路を移すことだ。もしそうでない限り、日本にどんな新しい文芸も、どんな新しい社会思潮も生れはしない。なぜなら我々の居るところは、始めから文明の線がちがっているから。そして別の軌道を走る車は、永久に触れ合う機会がないのだから。
 いかに久しい間、この真実が人々に理解されず、徒労が繰返されたことであろうか。我々のあまりに日本人的な、あまりに気質的にデモクラチックな、あまりに先天的にレアリスチックな民族が、外国とはまるで軌道のちがった線路の上で、空《むな》しく他のものを追おうとして、目的のない労力をしたことだろうか。明治以来、我々の文壇や文明やは、その慌《あわただ》しい力行にかかわらず、一も外国の精神に追いついてはいなかった。逆に益々《ますます》、彼我《ひが》の行きちがった線路の上で、走れば走るほど遠ざかった。何という喜劇だろう! 実にこの無益にして馬鹿気た事実を、近時の文壇と社会相から、至るところに指摘することができるのだ。
 吾人はこれを警戒しよう。あらゆる日本の文明は、軌道をまちがえたジャーナリズムから、逆に後もどりをしてしまうということを。例えばあの自然主義がそうである。我々の若い文壇は、これによって欧洲の近代思潮に接触し、世界的に進出しようと考えた。然るに何が現実されたか? あああまりに日本的に、あまりにレアリスチックに解釈された自然派の文壇は、外国的なる一切の思潮を排斥し、すべての主観を斥《しりぞ》け、純粋に伝統的なる鎖国日本に納まってしまったのだ。もし日本に自然主義が渡来せず、過去の浪漫主義がそのまま延びて行ったら、すくなくとも、最近では、今少し世界的に進出していたであ
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