に止まっている。詩としての真価については、いかにしても満足のできる承諾をあたえ得ない。なぜならばこの種の魅力は、皮膚の表面を引っ掻《か》くような、軽い機智的のものに止まり、真に全感的に響いている、詩としての強い陶酔感や高翔感やを、決して感じさせることがないからだ。詩が全感的にあたえる強い魅力は、常に必ず音律美に存している。故に音律美のないこの種のものは、詩として末流のものにすぎないのだ。
 実に今日の我が詩壇は、この種の印象的散文によって充満している。人々は自由詩の名によって、直ちにそれを聯想するほど、一般に広くこれが普遍している。実際音律美の殆ど欠けている口語によって、いくぶん詩らしい文学を書こうとすれば、これより外に行く道はないかも知れない。この点に於ては、著者も同様の仲間であり、自分の非難を自分に向けている一族である。だがそれにもかかわらず著者がこの非難の声を高くするのは、実に今日の我が詩壇が、詩の真に何物たるかを知らずにおり、誤って虚偽のものを正と信じているからである。最も愚劣千万なのは、人々がこの種の似而非《えせ》自由詩(印象的散文)に見慣れた結果、それを以て新しき詩の正道であると考え、実に有るべき真の詩を[#「有るべき真の詩を」に丸傍点]、理念から閑却していることである。
 思うに現時の詩人たちは、いつも彼等の眼先にちらついている、そうした印象的散文を読んでいるのみで、一も外国の詩を読まず、また自国の過去の詩についても知らないのであろう。もし彼等にして西洋や支那の詩を読み、自国の過去の詩を読んだら、東西古今を通じて、一もかくの如き没音律の詩がないこと、また詩の詩たる真の魅力が、音律美を外にしてあり得ないことを知るであろう。そしてこの点に気がつくならば、現時の詩壇にある如き似而非自由詩が、根本的に承諾されないものであること、いかにもしてより高いイデヤの方へ善導して行かねばならないことを知るだろう。そしてもし、諸君にしてそこに気が付くならば、詩壇の正義は回復され、批判の眼は正しくなり、すくなくとも詩の進出を、正しき方向に導き得るのだ。
 要するに現時の詩人は、日本文明の混沌《こんとん》たる過渡期に於ける、一の不運な犠牲者である。今日から批判して、過去の新体詩人が時代の犠牲者であった如く、吾人もまた近い未来の文化から追懐され、不幸な犠牲者として見られるだろう。
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