るにすぎない。例えば、或《あるい》は詩は霊魂の窓であると言い、天啓の声であると言い、或は自然の黙契であると言い、記憶への郷愁だと言い、生命の躍動だと言い、鬱屈《うっくつ》からの解放だと言い、一々個人によって意見を異にし、一も普遍妥当するところがない。畢竟《ひっきょう》これ等のものは、各々の詩人が各々の詩論を主張しているのであって、一般についての「詩の原理」を言ってるのでない。吾人が本書で説こうとするのは、こうした個人的の詩論でなくして、一般について何人にも承諾され得る、普遍共通の詩の原理である。
 さて内容からされた詩の解説が、かく各人各説であるに反して、一方形式からされた詩の答解は、不思議に多数者の意見が一致し、古来の定見に帰結している。曰《いわ》く、詩とは韻律《リズム》によって書かれた文学、即ち「韻文」であると。思うにこの解説ほど、詩の定義として簡単であり、かつ普遍に信任されているものはないだろう。しかしこの解説が、果して詩の詩たるべき本質を、形式上から完全に定義しているだろうか? 第一の疑問は、先《ま》ず韻律《リズム》とは何ぞや、韻文《バース》とは何ぞやと言うことである。字書の語解は、この点に就いて完全な答案を持つであろう。にもかかわらず、古来多くの詩人等は、この点で態度を晦《くら》まし、強《し》いて字義の言明された定義を避けてる。けだし、彼等の認識中には、詩と散文との間に割線がなく、しばしば韻文の延べた線が、散文の方に紛れ込んでいるのを知ってるからだ。彼等はその点で困惑し、語義を曖昧《あいまい》にしておくことから、ずるく[#「ずるく」に傍点]ごまかそうとしているのである。
 されば*リズムや韻文やの語も、詩人によってそれぞれまた解釈と意見を異にしている。誰もおそらく、この言語の意味する字書の正解を知ってるだろう。しかも多くの詩人等は、これにまた各自の勝手な附説をつけ、結局して自己の詩と結びつけているのである。故《ゆえ》に詩の形式に於ける答解も、つまりは内容に於けるそれと同じく、どこにも共通普遍の一致がない、各人各説の独断説にすぎないことが推論される。しかし此処《ここ》では、仮りに各人の意見が一致し、文字通りの正解された韻文を以て、詩の詩たる典型の形式であると認めておこう。しかしそれにしても、尚《なお》この答解は疑わしく、定義として納得できないものを考えさせる
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