をかんじはじめた、
子供は実に、はつきりとした声で叫んだ。
みればそこには笛がおいてあつたのだ。
子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。
それ故この事実はまつたく偶然の出来事であつた。
おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。
けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。
もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、
卓の上に置かれた笛について。



[#ここに室生犀星氏が寄稿した「健康の都市」という長文が入ります。氏の著作権は現時点(1998年8月)保護されていますので、掲載をひかえさせていただきます]



故田中恭吉氏の芸術に就いて

 雑誌「月映」を通じて、私が恭吉氏の芸術を始めて知つたのは、今から二年ほど以前のことである。当時、私があの素ばらしい芸術に接して、どんなに驚異と嘆美の瞳をみはつたかと言ふことは、殊更らに言ふまでもないことであらう。実に私は自分の求めてゐる心境の世界の一部分を、田中氏の芸術によつて一層はつきりと凝視することが出来たのである。
 その頃、私は自分の詩集の装幀や※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画を依頼する人を物色して居た際なので、この新らしい知己を得た悦びは一層深甚なものであつた。まもなく恩地孝氏の紹介によつて私と恭吉氏とは、互にその郷里から書簡を往復するやうな間柄になつた。
 幸にも、恭吉氏は以前から私の詩を愛読して居られたので、二人の友情はたちまち深い所まで進んで行つた。当時、重患の病床中にあつた恭吉氏は、私の詩集の計画をきいて自分のことのやうに悦んでくれた。そしてその装幀と※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画のために、彼のすべての「生命の残部」を傾注することを約束された。
 とはいへ、それ以来、氏からの消息はばつたり絶えてしまつた。そして恩地氏からの手紙では「いよいよ恭吉の最後も近づいた」といふことであつた。それから暫らくして或日突然、恩地氏から一封の書留小包が届いた。それは恭吉氏の私のために傾注しつくされた「生命の残部」であつた。床中で握りつめながら死んだといふ傷ましい形見の遺作であつた。私はきびしい心でそれを押戴いた。(この詩集に※[#「插」でつくりの縦棒が下に
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