聞いた。
「あの、おたづね致しますが……」
それは姉の方の娘であつた。彼女はたしかに、私よりも一つ二つ年上に見え、怜悧な美しい瞳《め》をした女であつた。
「滝の方へ行くのは、この道で好いのでせうか?」
さう言つて慣れ慣れしく微笑した。
「はあ!」
私は窮屈に四角ばつて、兵隊のやうな返事をした。女は暫らく、じつと私の顔を眺めてゐたが、やがて世慣れた調子で話しかけた。
「失礼ですが、あなた一高のお方ですね?」
私は一寸返事に困つた。
「いいえ」といふ否定の言葉が、直ちに瞬間に口に浮んだ。けれども次の瞬間には、帽子のことが頭に浮んで、どきり[#「どきり」に傍点]と冷汗を流してしまつた。私は考へる余裕もなく、混乱して曖昧の返事をした。
「はあ!」
「すると貴方は……」
女は浴せかけるやうに質問した。
「秋元子爵の御子息ですね。私はよく知つて居ますわ。」
私は今度こそ大きな声で、はつきり[#「はつきり」に傍点]と返事をした。
「いいえ。ちがひます。」
けれども女は、尚疑ひ深さうに私を見つめた。或る理由の知れないはにかみ[#「はにかみ」に傍点]と、不安な懸念とにせき立てられて、私は女づれを後に残し、速足でずんずんと先に行つてしまつた。
私がホテルに帰つた時、偶然にもその娘等が、隣室の客であることを発見した。彼等はその年老いた母と一緒に、三人で此所に来て居た。いろいろな反覆する機会からして、避けがたく私はその女づれと懇意になつた。遂には姉娘と私だけで、森の中を散歩するやうな仲にもなつた。その年上の女は、明らかに私に恋をして居た。彼女はいつも、私のことを『若様』と呼んだ。
私は最初、女の無邪気な意地悪から、悪戯に言ふのだと思つたので、故意《わざ》と勿体ぶつた様子などして、さも貴族らしく返事をした。だが或る時、彼女は真面目になつて話をした。ずつと前から、自分は一高の運動会やその他の機会で、秋元子爵の令息をよく知つてること。そして私こそ、たしかにその当人にちがひなく、どんなにしらばくれて隠してゐても、自分には解つてるといふことを、女の強い確信で主張した。
その強い確信は、私のどんな弁駁でも、撤回させることができなかつた。しまひには仕方がなく、私の方でも好加減に、華族の息子としてふるまつて居た。
最後の日が迫つて来た。
かなかな[#「かなかな」に傍点]蝉の鳴いて
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