近の小さな滝を見ようとして、一人で夏の山道を登つて行つた。七月初旬の日光は、青葉の葉影で明るくきらきら[#「きらきら」に傍点]と輝やいて居た。
私は宿を出る時から、思ひ切つて行李の中の帽子を被つて居た。こんな寂しい山道では、もちろんだれも見る人がなく、気恥しい思ひなしに、勝手な空想に耽れると思つたからだ。夏の山道には、いろいろな白い花が咲いて居た。私は書生袴に帽子を被り、汗ばんだ皮膚を感じながら、それでも右の肩を高く怒らし、独逸学生の青春気質を表象する、あの浪漫的の豪壮を感じつつ歩いて居た。懐中には丸善で買つたばかりの、なつかしいハイネの詩集が這入つて居た。その詩集は索引の鉛筆で汚されて居り、所々に凋れた草花などが押されて居た。
山道の行きつめた崖を曲つた時に、ふと私の前に歩いて行く、二個の明るいパラソルを見た。たしかに姉妹であるところの、美しく若い娘であつた。私は何の理由もなく、急に足がすくむやうな羞しさと、一人で居るきまり[#「きまり」に傍点]の悪さを感じたので、歩調を早めながら、わざと彼等の方を見ないやうにし、特別にまた肩を怒らして追ひぬけた。どんな私の様子からも、彼等に対して無関心で居ることを装はうとして、無理な努力から固くなつて居た。そのくせ内心では、かうした人気のない山道で、美しい娘等と道づれになり、一口でも言葉を交せられることの悦びを心に感じ、空想の有り得べき幸福の中でもぢもぢ[#「もぢもぢ」に傍点]しながら。
私は女等を追ひ越しながら、こんな絶好の場合に際して機会《チヤンス》を捕へなかつたことの愚を心に悔いた。
だが丁度その時、偶然のうまい機会が来た。私が汗をぬぐはうとして、ハンケチで額の上をふいた時に、帽子が頭からすべり落ちた。それは輪のやうに転がつて行つて、すぐ五六歩後から歩いて来る、女たちの足許に止まつた。若い方の娘が、すぐそれを拾つてくれた。彼女は恥ぢる様子もなく、快活に私の方へ走つて来た。
「どうも……どうも、ありがたう。」
私はどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]しながら、やつと口の中で礼を言つた。そして急いで帽子を被り、逃げ出すやうにすたすた[#「すたすた」に傍点]と歩き出した。宇宙が真赤に廻転して、どうすれば好いか解らなかつた。ただ足だけが機械的に運動して、むやみに速足で前へ進んだ。
だがすぐ後の方から、女の呼びかけてくる声を
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