易者の哲理
萩原朔太郎

 すべての易者たちは、彼の神祕な筮竹を探りながら、威嚇するやうな調子で言ふ。人間の一生は、天に於ける九星の宿位によつて、生れた最初の日から死ぬ時まで、必然に避けがたく豫定されてる。それ故に我々は、星占學の記入された簿記を調べて、君の生涯の第一頁から、奧付の終頁までを、確實に誤りなく、讀むことができるのであると。
 此處までの思想で見れば、易者の哲理は決定論に類屬して居た。それは科學の宇宙觀や、唯物主義の人生觀と同じく、すべての現象を、それの生ずる前提條件の因果にたづね、偶然のない宇宙――宿命的、數學的に決定された人生――を説明して居るのである。けれども若しさうだつたら、何人も決して易者の占筮を乞はないだらう。何故といつて我々の運命は、易者の言ふ如く、過去にも、現在にも、未來にも、必然的に避けがたく決定されてる。丁度日影に蒔かれた貧弱の瓜の種から、一つの貧弱の苗が生え、蔓が伸び、やがて貧弱の實が成るやうに、人間の生涯もまた、最初の種と原因とに、すべての發展する將來の結果を内因して居る。瓜がいくら熱心に願つたところで、その他の何物にもなり得る筈がなく、星占學の簿記に書かれた人間の一生は、どんなインキ消を使用しても、斷じて消すことも變へることも出來ないのである。
 さてそれならば、易者がどうして人の運命を自由に變化し、未來の幸福を指示することができようか。易者に聞いても聞かないでも、豫定された未來の不幸は、必ず避けがたくやつて來る。さうして若しさうだとすれば、人は未來の運命から眼を閉ぢ、故意に知るまいとして努めるだらう。どんな物好きの死刑囚も、自分の刑の執行日をわざわざ看守に尋ねはしない。すべての人々は、未來を豫知できない故に生きながらへてる。だれがわざわざ、自殺するために易者の店を訪ふだらうか。逆に却つて人々は、星占學の辻占から、未來の漠然たる幸福――幸福があるだらうといふ運命の豫約――を期待して居る。そしてまた(皮肉なことには)いやしくも易者を訪ふほどのすべての人は、過去にも現在にも不運であり、それ故にまた將來の幸運さへも、概して豫想できないところの人々である。
 すべての易者と星占家(家相家や、人相見や、八卦師や)は、かうした彼等の所謂亡者どもを濟度するため、矛盾にも此處で前説を豹變し、逆に今度は、意志の自由が運命を支配すること、自覺と心が
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング