癖のある女性であった。けれども婦人の身として、さすがにこの不思議な出来事は不気味であった。自分のいない留守の間に、或る知らない人物が忍び込んで、居間《いま》で何事かをしているということは、考えるだけでも神経を暗くした。
夫人は夢に魘《うな》された時のように、厭やな重圧した気分を感じた。だが彼女の推理癖は、どうにもしてこの奇怪な事件から、真の原因を探り出そうと考えた。もし或る人物が、留守にどこかの窓を開けて、そこから闖入《ちんにゅう》して来るとすれば、窓の或るどこかに、コジあけた痕跡《こんせき》が残っているか、でないとしても、多少の指紋が残っているべきはずである。夫人は注意ぶかく調べて見た。だが窓のどこにも、少しの異状がなく、指紋らしきものさえなかった。この点の様子からは、絶対に人の這入った痕跡がないのである。
翌朝起きた時に、彼女は一つの妙案を思いついた。それは部屋のあらゆる隅々へ、人の気づかない色チョークの粉を、一面に薄く敷いておくことである。もし今日も昨日のように、留守に何事かが、起ったらば、すっかり証拠の足跡がついてしまう。例の厭やな猫でさえも、それが這入って来た箇所からの、正直な足跡を免かれない。一切の原因が明白になってしまうだろう。
この計案を完全に実行し、充分の成功を確めたところで、彼女はいつもの外套を着、いくらか落付いた気分で出かけて行った。が、だが事務室の柱時計が四時に近くなった時には、またいつもの不安な予感が、いつものように襲って来た。どうしても部屋の中に、だれかが坐っているような感じがする。その感じはハッキリしており、眼の前を飛ぶ小虫のように、執拗《しつよう》に追いのけられないものであった。そしてなお不吉なことには、いつも必ず適中するのであった。果してその留守の部屋の中には、今日もまた黒猫が坐り込んでた。気味の悪い静かな瞳で、じっと夫人の方をみつめながら。しかもその部屋の中には、夫人のすべての期待に反して、どこに一つ小さな足跡すら付いてなかった。今日の朝に敷かれたチョークの粉は、閉じ込められた室《へや》の重たい空気で、黴《かび》のように積っていた。その粉の一粒すらが、少しも位地を換えてなかった。明白に部屋の中へは、何物も這入って来なかったのである。
すべてのあり得べき奇異の事情と、その臆測《おくそく》される推理の後で、夫人はすっかり混惑《こんわく》してしまった。実証されてる事実として、此所にはどんな人間も這入って来ず、猫でさえも、決して外部から入り込んだものではないのだ。しかも奇怪のことには、その足跡を残さぬ猫が、ちゃんと目前の床に坐り込んでいるではないか。今、此所に猫がいるというほど、それほど確かな事実はない。しかも魔法の奇蹟でない限り、この固く閉めこんだ室の中に、一つの足跡も残さずして、猫がいるという道理はないのである。
夫人は理性を投げ出してしまった。それでもなお、もっと念入りの注意の下に、翌日もまた同じ試験を試みてみた。だが結果は、依然として同じであり、しかもその翌日も、翌日も同じ気味の悪い黒猫が、同じ床の上に坐り込んでいた。そしてこの奇怪の動物は、彼女が窓を開けると同時に、いつもそこから影のように飛び去って行った。
とうとう夫人は、最後に或る計画を思いついた。猫がどこから這入ってくるのかを見定めるため、扉《ドア》の蔭にかくれていて、終日鍵穴から覗《のぞ》いてみようと考えた。翌日、彼女は出勤を休んだ。そしていつもの通り、窓にすっかり錠をおろし、戸口に一脚の椅子を持ち出した。それから扉を閉め、椅子を鍵穴のところに持って行って、一秒の間も油断なく、室内を熱心に覗いていた。朝から午後まで長い時間が経過した。それは彼女の緊張した注意力には、ひどく苦しい時間であり、耐えられないほどの長い時間であった。ともすれば彼女は、注意力の弛緩《しかん》からして、他のことを考えてぼんやりしていた。彼女は時々、胸の隠衣《かくし》から時計を出して針の動くのを眺めていた。すべて長い時間の間、室内には何事も起らなかった。夫人はまた時計を出した。その時丁度、針が四時五分前を指していたので、うたた寝から醒めた人のように、彼女は急に緊張した。そして再度鍵穴から覗いた時、そこにはもはや、ちゃんといつもの黒猫が坐っていた。しかもいつもと同じ位地に、同じ身動きもしない静かな姿勢で。
全くこの事実は、超自然の不思議というより外、解決のできないことになってしまった。ただ一つだけ解ってるのは、午後の四時になる少し前に、どこからか、どうしてか解らないが、とにかく一疋《いっぴき》の大きな黒猫が、室内に現われてくるという事実であった。夫人はもはや、自分の認識を信用しなくなってしまった。すべてやるだけの手段を尽し、疑い得るだけの実験を尽してし
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