まった。夫人はもしかすると、自分の神経に異状があり、狂気しているのではないかと思った。彼女は鏡の前に立って、瞳孔《どうこう》が開いているかどうかを見ようとした。
毎日毎日、その忌《いま》わしい奇怪の事実が、執拗にウォーソン夫人を苦しめた。彼女はすっかりヒステリカルになってしまい、白昼事務室の卓の上にも、猫の幻影を見るようになってしまった。時としてはまた、往来を歩くすべての人が、猫の変貌《へんぼう》した人間のように見えたりした。そういう時に彼女は、その紳士めかした化猫の尻尾《しっぽ》をつかんで、街路に叩《たた》きつけてやりたいという、狂気めいた憎悪《ぞうお》の激情に駆り立てられ、どうしても押えることができなかった。
それでも遂《つい》に、理性がまた彼女に回復して来た。この不思議な事件について、第三者の実証を確めるために、友人を招待しようと考えたのだ。それで三人の友人が、いつも猫の現われる時間の少し前に、彼女の部屋に招待された。二人は同じ職業の婦人であり、一人は死んだ良人の親友で、彼女とも家族的に親しくしていたところの、相当年輩に達した老哲学者であった。
訪客と主人を加えて、丁度四脚の肱掛椅子《ひじかけいす》が、部屋の中央に円《まる》く並べられた。それは客のだれの眼にも、猫がよく見える位置を選んで、彼女がわざとそうしたのであった。始め暫らくの間、皆は静かに黙っていた。しかし少時の後には、会話が非常にはずんで来て、皆が快活にしゃべり始めた。いろいろな取りとめもない雑談から、話題は心霊学のことに移った。老博士の哲学者は、この方面に深い興味を持っていたので、最近或る心霊学会で報告された、馬鹿に陽気な幽霊の話をして婦人たちを面白|可笑《おか》しく笑わせた。しかしウォーソン夫人だけは、真面目《まじめ》になって質問した。
「動物にも幽霊があるでしょうか? 例えば猫の幽霊など。」
皆は一緒に笑い出した。猫の幽霊という言葉がひどく滑稽《こっけい》に思われたのである。だが丁度、その時皆の坐っている椅子の前へ、いつもの黒猫が現われて来た。それはだれも知らないどこかの窓から、そっと入り込んで来たのであった。そして平気な様子をして、いつもの場所にすまし[#「すまし」に傍点]込んで坐っていた。
「この事実は何ですか?」
夫人は神経を緊張させて、床の上の猫を指さした。その一つの動物に、皆の注意を集中させようとしたのである。
人々はちょっとの間、夫人の指さす所を見た。しかしすぐに眼をそらして、他の別の話を始めた。だれも猫については、少しも注意していないのである。多分皆は、そんなつまらない動物に、興味を持とうとしないのだろう。そこでまた夫人が言った。
「どこから這入って来たのでしょう。窓は閉めてあるし、私は猫なんか飼ってもいないのに。」
客たちはまた笑った。何かの突飛《とっぴ》な洒落《しゃれ》のように、夫人の言葉が聴えたからだ。すぐに人々は、前の話の続きにもどり、元気よくしゃべり[#「しゃべり」に傍点]出した。
夫人は不愉快な侮辱を感じた。何という礼義知らずの客だろう。皆は明らかに猫を見ている。その上に自分の質問の意味を知ってる。自分は真面目で質問した。それにどうだ。皆は空々しく白ばっくれて、故意に自分を無視している。「どんなにしても」と、夫人は心の中で考えた。「この白ばっくれた人々の眼を、床の動物の方に引きつけ、そこから他所見《よそみ》が出来ないように、否応なく釘付《くぎづ》けにしてやらねばならない。」
一つの計画された意志からして、彼女は珈琲《コーヒー》茶碗《ぢゃわん》を床に落した。そして過失に驚いた様子をしながら、人々の足下に散らばっている破片を集め、丁寧に謝罪しながら、婦人客の裾《すそ》についた液体の汚点《しみ》をぬぐった。それからの行為は、否応なく客たちの眼を床に向け、すぐ彼らの足下にいる猫へ注意を引かねばならないはずだ。にもかかわらず、人々は快活にはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]廻って、そんなつまらない主人の過失を、意にもかけない様子をした。皆は故意に会話をはずませて、過失に狼狽《ろうばい》している主人の様子を、少しも見ないように勉《つと》めていた。
ウォーソン夫人は耐えがたくいらいら[#「いらいら」に傍点]して来た。彼女は二度目の成功を期待しながら、執念深く同じ行為を繰返して、再度|茶匙《ちゃさじ》を床に落した。銀製の光った匙は、床の上で跳《は》ねあがり、鋭く澄んだ響を立てた。がその響すらも、人々の熱中した話題の興味と、婦人たちのはしゃいだ話声の中で消されてしまった。だれもそんな事件に注意をせず、見向いてくれる人さえなかった。反対に夫人の方は益※[#二の字点、面区点番号1−2−22、42−7]神経質に興奮して来た。彼女はすっかり
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