ヒステリックになり、烈《はげ》しい突発的の行動に駆り立てられる、激情の強い発作を感じて来た。いきなり彼女は立ちあがった。そして足に力を込め、やけくそ[#「やけくそ」に傍点]に床を蹈《ふ》み鳴らした。その野蛮な荒々しい響からして、急に室内の空気が振動した。
 この突発的なる異常の行為は、さすがに客人たちの注意を惹《ひ》いた。皆は吃驚《びっくり》して、一度に夫人の方を振り向いた。けれどもただ一瞬時にすぎなかった。そしてまたもとのように、各自の話に熱中してしまった。もうその時には、ウォーソン夫人の顔が真青に変っていた。彼女はもはや、この上客人たちの白々《しらじら》しさと無礼とを、がまんすることが出来なかった。或る発作的な激情《パッション》が、火のように全身を焼きつけて来た。彼女はその憎々しい奴《やつ》どもの頸《くび》を引っつかんで、床にいる猫の鼻先へ、無理にもぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]と押しつけてやろうとする、強い衝動を押えることができなかった。
 ウォーソン夫人は椅子を蹴《け》った。そして本能的な憎悪の感情に熱しながら、いきなり一人の婦人客の頸を引っつかんだ。その婦人客の細い頸は、夫人の熱した右手の中で、死にかかった鵞鳥《がちょう》のようにびくびく[#「びくびく」に傍点]していた。夫人はそいつを引きずり倒して、鼻先の皮がむけるまで、床の上へ惨虐《ざんぎゃく》にこすり付けた。
「ご覧なさい!」
 夫人は怒鳴った。
「此所に猫がいるんだ。」
 それから幾度も繰返して叫んだ。
「これでも見えないか?」
 おそろしい絶叫が一時に起った。婦人客は死ぬような悲鳴をあげて、恐怖から壁に張りつき、棒立ちに突っ立っていた床にずり倒れた。婦人の方は殆んど完全に気絶していた。ただ一人、老哲学者の博士だけが、突然的の珍事に対して、手の付けようもなく呆然《ぼうぜん》と眺めていた。ウォーソン夫人の充血した眼は、じっと床の上の猫を見つめていた。その大きな気味の悪い黒猫は、さっきから久しい間、じっとそこに坐っており、音楽のように静かにしていた。その印象の烙《や》きつけられた姿は、おそらく彼女の生涯まで、どんなにしても離れがたく、執拗に生きてつきまとっているように思われた。「今こそ!」と彼女は考えた。「こいつを撃ち殺してしまわねばならない!」
 それから書卓の抽出《ひきだし》を開け、象牙《ぞうげ》
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